宇治市 旧村社 京都(山城国)

子守神社・式内 巨椋神社

概 要

社 号 巨椋神社
読み おぐら
通称:子守神社
江戸中期以前から春日社と称していた
延喜式神名帳 式内社 山城国久世郡 巨椋神社

所在地 京都府宇治市小倉町寺内31
御祭神 武甕槌神(たけみかづちのかみ) 経津主神(ふつぬしのかみ) 天児屋根神(あめのこやねのかみ) 比咩神(ひめがみ)…(春日四神)
当初は巨椋氏の氏祖を祀っていた。
新撰姓氏禄(815)には
「山城国神別(天神) 巨椋連 今木連同祖 止与波知命(トヨハチ)之後也」
例祭日 10月1日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
久世郡 24座(大11座 小13座)
式内社

近代社格制度 旧村社
創建     年代不詳
本殿様式   三間社流造 檜皮葺

境内摂末社(祭神)

子守神社(祭神:天磐樟船神・蛭子神) 天満宮(祭神:菅原道真) 大国主社(祭神:大国主命・事代主命) 勝手社(祭神:手力雄命) 八幡宮(祭神:仁徳天皇・天押雲神)
文化財

一口メモ

近鉄小倉駅の北北東、府道69号の一つ東の旧道(旧大和街道)の東に南北に細長い境内がある。子守神社としての名の方が高い。

歴史・由緒等

巨椋神社
旧宇治川・木津川・桂川の三川が流れ込む巨椋池の東部で南寄りで、豊臣秀吉が巨椋池東部に築いた太閤堤を通る旧大和街道(大坂と伏見を結ぶ)の東側に鎮座していた。

巨椋池のほとりに住んでいた巨椋氏一族がその祖神を祀ったのが創始。
当社に春日神が祀られた時期などについて、式内社調査報告には、
「藤原氏の勢力拡大、さらには藤原忠文(873–947・式家藤原宇合5代の孫)の別荘の存在などより、今日みるような祭神が奉祀されたのであろう。巨椋氏から藤原氏へ祭主が変更していった時期は、平安後期に想定される」

子守神社
今の当社は市街地の中に鎮座するが、かつての鎮座地については2説あり、
・社伝…古くは北方の現小倉町春日森(当社の北北東約200mほどに現存)にあったが、洪水(発生年次不明)のため、古くから子守神社があった現在地に移転した
・『宇治市史』…古くは現在地にあったが、春日神社の勧請によって北方の春日森に退去させられ小森明神と称したが、洪水により、旧地(現在地)に子守神社として復座した。

『由緒書』によれば、
子守神社は人皇55代文徳天皇の皇子惟喬親王が子供愛護の大御心によつて建立された神社であります。
そのいわれは昔三疋(ひき)の大鳥何方となく来り数多のつつき、けとばし、なやましたので、帝がこの由を聞かれ惟喬親王に弓矢を以て諸国を廻り退治させられました。その時河内の渚の院にて大鳥を射殺され帰途その故を以て小倉村中の小路に子守大神を祀られたのが当社の創めでありまして、御祭神は天磐樟船神であります。
以来世にも稀な子供の守護神として霊験日に日にあらたかであります。

『式内社調査報告』子守神社

子守神社は天磐樟神と蛭子命の二神を紀る。この社は小野惟喬親王が子供に危害を加へていた大鷲を三羽退治し、やがて宮をつくったのが当社であるという伝説を有し、子供の守り神としてかなり熱心に信仰されている。
巨椋氏一族の祖神をまつる社であつた巨椋社の境内に、巨椋氏一族すなはち木地師集團が職の祖と仰ぐ惟喬親王の建立になると伝える子守社が存在することは、すこぶる注目される。数年前より子守神社の祭神は巨椋社本殿に相殿として祀られるようになっており、子守社は空殿となっている。

江戸中期の小倉村絵図に、小字春日森の巨椋池畔に「小森(子守)大明神」と記されている
古い神社では、新しく勧請された祭神によって、本来の祭神が脇に追いやられ摂・末社化した事例は多く、当社もその一例かもしれない。
今の祭神は春日四神(春日大社の祭神)となっているが、江戸時代以降の古資料においても、春日の神…『山城名跡巡行志(1754・江戸中期)』、「巨椋の社は入江の南、小倉の里の東にあり、春日明神を祭る」…『都名所図会(1780)』、「式内村社、俗春日社と称す」…『久世郡村誌(1902・明治後期)』
とあり、参道入口に立つ石燈籠に「天明五(1785)乙巳年九月建之 春日社」との刻銘があるように、江戸中期以前から春日社と称していたという。

境内・社叢

  
鳥居                       社号標  


手水舎

   
狛犬

  
拝所                       本殿覆屋


子守神社

(その他の境内社撮影できなかった)

地名・地誌

歴史で古代南山城に巨椋池という大きな湖が存在していたことを習ったが、その場所に始めて来た。現在の京都市伏見区・宇治市・久御山町にまたがる場所にかつて存在した池。規模からいえば池よりも「湖」と呼ぶ方がふさわしく、現在「池」と呼んでいる最大の湖沼である湖山池よりも広かった。最終的には1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて行われた干拓事業によって農地に姿を変えた。

宇治川が京都盆地に流れ込むところは、京都盆地の中でも最も低いところに位置しており、琵琶湖から流れ出る唯一の河川である宇治川は、京都盆地へ流入する平等院付近から、京都盆地の西端にあった木津川、桂川との合流点の上流側にかけて広大な遊水池を形成していた。これがこの時代の巨椋池である。(ウィキペディア)

地図

京都府宇治市小倉町寺内31

交通アクセス・周辺情報

神社裏手に駐車場

参 考

「戸原のトップページ」さん、「延喜式の調査」さん

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