宇治市 京都(山城国)

式内 宇治彼方神社

概 要

社 号 宇治彼方神社
読み おちかた
椎ヶ本社とも称した
延喜式神名帳 式内社 山城国宇治郡 宇治彼方神社 鍬靫

所在地 京都府宇治市宇治東内28
御祭神 大物主命(ああおものぬしのみこと)
『神社要録』や『大日本史』神祇志等には、宗像神を祀るとしている
諏訪神-境内に「諏訪大明神」(享保18年-1733-11月建)と刻した石燈籠がある
例祭日 12月6日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
紀伊郡 8座(大3座 小5座)
式内社

近代社格制度 旧村社
創建       年代不詳
本殿様式    流造

境内摂末社(祭神)

文化財

一口メモ

おとどし(2014)宇治を訪ねた際に、宇治橋東詰京阪宇治駅前を通りながら、交通量が多いメインストリートで駐車を断念したので、小社ながらとくに回りたかった神社であった。
平日の午前中ということもあって、比較的往来は少なく、あちこち止められる場所はないかと捜し回った。良くはないと思いつつ、反対側の交差点脇に空きスペースがあるのを発見。足早に横断歩道を渡り参拝。車で参拝するには難易度は高レベル。京阪宇治駅のすぐ東なので徒歩なら楽に行ける。時間があれば平等院や宇治上神社・宇治神社などはコインパーキング等に駐めてゆっくりと散策し方がいいのは言うまでもないが。

歴史・由緒等

宗像の神→諏訪明神→現神と変わってきている。『宇治市史』(1973)は
「宗像神は海神であり、諏訪神も風・水の神であって、宇治川の流れ落つる彼方(乙方)にまつられるに相応しい神である」
と記す。
宇治川の舟行守護・氾濫防止などを祈って水神を祀ったものと思われ、はじめ宗像神として崇敬され、何時の頃(江戸中期以前)かに諏訪の神に替わったと思われるが、境内には“諏訪大明神”と刻した石燈籠はあるものの、宗像神を祀った痕跡は見えない。
また、水神を祀ったとはいえ、遠い諏訪の神を祀った由緒は不詳。

現在大物主命となっているが、
彼方(オチカタ)の語源として、
川(宇治川)が流れ落ちる彼方とする説
宇治橋から三室戸に至る宇治大路の、大路方(オオジカタ)がオチカタと転訛したとする説
があるが、祭神が水に関係していることから、川の流れ落ちる彼方との説が有力という。ただ、旧街道筋という立地からみて、オオジカタの転訛というのも捨てがたい。

奈良時代の『日本書紀』、神功皇后(じんぐうこうごう)の条に、この地「彼方(おちかた)の疎林(あらら)の松原」が登場する。
「彼方(おちかた)の 疎林(あらら)松原 松原に 渡り行きて 槻弓(つくゆみ)に まり矢を副(たぐ)へ」、「貴人(うまひと)は 貴人どちや 親友はも 親友どち いざ戦はな 我は」、「たまきはる(枕詞) 内の朝臣(あそ)が 腹内は 小石あれや いざ戦はな 我は」(遠方の疎林の松原に進み、槻弓(欅の弓)に鏑矢を番え、貴人は貴人同士、親友は親友同士でさあ戦おう、我々は。武内朝臣の腹中に、小石が詰まっているはずはない。さあ戦おう、我々は。)(熊之凝)。
忍熊王の返歌。「いざ吾君(あぎ) 五十狹茅宿禰(いさちすくね) たまきはる 内の朝臣(あそ)が 頭槌(くぶつち)の 痛手負はずは 鳰鳥(にほどり)の 潜(かづき)せな」(さあ、わが君、五十狹茅宿禰よ。武内宿禰の太刀の痛手負わずに、鳰鳥(カイツブリ)のように水に潜って死のう。)(忍熊王)。(『日本書紀』歌謡番号28、29)。
皇子は、武内宿禰の策略により武装を解き、逃走した逢坂で敗れた。皇子は、五十狭茅宿禰(生没年不詳)とともに瀬田川に投身する。その遺骸は数日後に菟道河(宇治川)から発見されたという。(『日本書紀』、『古事記』)

境内・社叢

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社叢                 社号標

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鳥居                 社殿

地名・地誌

地図

京都府宇治市宇治東内28

交通アクセス・周辺情報

参 考

「戸原のトップページ」さん、「延喜式の調査」さん

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