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社 号 丹後国一宮 元伊勢 籠神社
式内社(名神大) 丹後国與謝郡 籠神社
別名:匏宮(はこみや)・与佐宮(よさのみや)元伊勢籠神社・内宮元宮・籠守大権現
読み 古 コノ 現 この
江戸時代は「元伊勢」と称していた
所在地 京都府宮津市字大垣430
旧地名 丹後国與謝郡
御祭神
主祭神 彦火明命(ひこほあかりのみこと)
別名:天火明命、天照御魂神、天照国照彦火明命、饒速日命)を主祭神
相殿配祀 豊受大神(とようけのおおかみ、別名:御饌津神)
天照大神(あまてらすおおかみ)
海神(わたつみのかみ)
天水分神(あめのみくまりのかみ)
例祭日 4月24日 葵例大祭
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
與謝郡(ヨサ):20座(大3座・小17座)
式内社(名神大)
中世社格制度 丹後国一宮
近代社格制度 国幣中社
社格制度廃止後 別表神社
創建 伝:垂仁天皇の時天照大神は伊勢伊須須川上へ遷宮
雄略天皇22年豊受大神伊勢国山田原に遷
大化改新の後与謝宮を籠宮と改称
養老3年(719)奥宮眞名井神社の地から現地へ遷
弘化2年(1845)造営
本殿様式 神明造
蛭子神社 (彦火火出見命、倭宿彌命)
天照皇大神社(天照大神の和魂あるいは荒魂)
真名井稲荷神社(宇迦御魂、保食神、豊受比売) 明治末期まで奥宮真名井神社に鎮座していたものを、1991年に本社境内に再建した。
境内末社
春日大名神社(春日四神)
猿田彦神社 (猿田彦神)
奥宮 真名井神社
本社の北東約400mの所に、当社の元の鎮座地である奥宮真名井神社(まないじんじゃ)
本殿はなく、拝殿の裏に2つの磐座がある。
右の磐座主座(主祭神 豊受大神、相殿 罔象女命、彦火火出見尊、神代五代神)
左の磐座西座(主祭神 天照大神、配祀 伊射奈岐大神・伊射奈美大神)
国指定文化財
海部氏系図
附 海部氏勘注系図 一巻
府指定文化財
籠神社 本殿
附 棟札 3枚
摂社真名井神社本殿
附 拝所 1棟 棟札 1枚
附 末社恵比寿神社本殿 1棟
大和国の皇居内に祭られていた皇祖神の天照大神が、まずこの丹後の地に滞在されたという言い伝えがあり、天皇家ゆかりの神社ということで、拝殿には菊の御紋が入った幕が掛けられている。
神明鳥居、神明造の社殿は、弥生時代の遺跡の柱の遺構が神明造の柱の配置に似ているため、弥生時代の高床式倉庫が発展したものと考えられている。江戸時代以前は伊勢神宮と、信濃国(現在の長野県)の神宮の所領とされた仁科神明宮、丹後国(現在の京都府)の籠神社(当社)など少数であった。
笠縫邑の皇居の瑞籬宮(檜原神:奈良県桜井市三輪)をお出になられた後、次ぎに移られた丹波乃国 吉佐宮がこの神社であるとする。
籠神社の創建は奈良時代の養老三年(719)ですが、奈良時代に初めて祭祀が行われるようになったという意味ではありません。と云いますのは、籠神社は奥宮真名井神社の地から現在の籠神社の地に遷宮され、創建されたからです。籠神社が創建されるまで奥宮真名井神社は吉佐宮(匏宮・與謝宮・与謝宮・与佐宮などと表記していずれも「よさのみや」と訓みます)と呼ばれておりました。神代の時代から天照大神の孫神であり、邇邇芸命の兄神である当社海部家の始祖彦火明命が豊受大神をお祀りしていました。そのご縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が倭の笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を「吉佐宮(よさのみや)」という宮号で四年間お祀り申し上げました。その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。
真名井神社は飛鳥時代の初め頃まで「与謝宮(吉佐宮)」と呼ばれていましたが、その後当社海部家二十六代目当主の海部直伍百道祝(いほじはふり)が宮号を「籠宮」と改め、真名井神社境内地であった真名井川の川辺に一旦遷宮し、その後奈良時代元正天皇の御代に、二十七代目当主海部直愛志(あまべのあたええし)が、現在の籠神社の地へと遷宮し、それを契機に主祭神を籠神社海部家の祖神である彦火明命とし、相殿に豊受大神・天照大神・海神・天水分神を併せ祀り創祀いたしました。
社伝によれば、養老3年(719年)、元々真名井原の地(現在の境外摂社・奥宮真名井神社)に豊受大神が鎮座し、匏宮(よさのみや、与佐宮とも)と称されていました。『神道五部書』の一つの「豊受大神御鎮座本紀」によれば、崇神天皇の時代、天照大神が大和笠縫邑から与佐宮に移り、豊受大神から御饌物を受けていました。4年後、天照大神は伊勢へ移り、後に豊受大神も伊勢神宮へ移った。これによって、当社を「元伊勢」といいます。
社家の海部氏は、彦火明命を祖とし、当社の創建以来、代々奉斎をしてきたとされ、現在は82代目。4代目の倭禰命は神武東征の際に亀に乗って神武天皇の前に現れ、大和国へ先導しました。
元伊勢(もといせ)とは、もともと皇居内に祭られていた皇祖神の天照大御神を伊勢神宮内宮に至るまでの間に一時的に祀った伝承を持つ神社・場所をいいます。崇神天皇(紀元前148年-紀元前30年)の皇女豊鋤入姫命により倭国、笠縫邑に移され、その後垂仁天皇(紀元前69年-70年)の第四皇女倭姫命に引き継がれ約60年の間をかけて行われたといわれています。
ー「神社公式HP」ー
天火明命(アメノホアカリノミコト)と古丹波のはじまり
丹後国は、丹波国から但馬国・丹後国がそれぞれ分立するまでひとつで、これを律令制の丹波国と分けるために「古丹波」「丹波王国」などという。そのはじまりは、天火明命と豊受大神の田庭の真名井原に降り立つところからはじまる。
天火明命は、日本神話において、天照大神の孫であり、{天忍穂耳命|あめのおしほみみのみこと)の息子。称辞は天照国照彦。アメノオシホミミ(天忍穂耳命)と高木神(タカギノカミ)の娘ヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間に生まれた。邇邇芸命(ニニギ)は弟だが、『日本書紀』の一書では子としている。
日本書紀によると邇邇芸命(ニニギノミコト)の兄です。日本神話に登場する神です。
『古事記』に天火明命、『日本書紀』に{火明命|ホアカリノミコト}、天照国照彦火明命、また『先代旧事本紀』には{天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊|あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやのみこと}と記されている。
『先代旧事本紀』では物部連の祖である{饒速日命|ニギハヤヒノミコト}と同一神としている。
『播磨国風土記』ではオホナムチの子としています。
『国司文書・但馬故事記』では、最初に{天照国照彦櫛玉饒速日天火明命|あまてるくにてるひこくしたまにぎはやひあめのほあかりのみこと}、略して天火明命からはじまる。
『国司文書・但馬故事記』第二巻・朝来郡故事紀、第三巻・養父郡〃、第四巻・城崎郡〃が最も詳しく書かれているのでまとめると、
{天照国照櫛玉饒速日天火明命|あまてるくにてるくしだまにぎはやひあめのほあかりのみこと}は、
{天照大神|あまてらすおおみかみ}の勅(皇の命令書)を受けて、外祖、{高皇産霊神|たかみむすびのかみ}より、十種の瑞宝(澳津鏡一、辺津鏡一、八握剣一、生玉一、死去玉一、道反玉一、足玉一、蛇比禮一、蜂比禮一、品物比禮一)を授かり、そして、妃の天道姫命と与(とも)に、
坂戸天物部命・{二田|ふたたの}天物部命・{両槻|なみつき}天物部命・ 真名井天物部命(朝来郡故事紀のみ記載)・嶋戸天物部命・天磐船命・天揖取部命・天熊人命・{蒼稲魂命|うかのみたまのみこと}を率いて、{天磐船|あまのいわふね}に乗り、高天原より田庭(丹波)の真名井ヶ原に降り、
豊受姫(とようけひめ)命に従い、五穀蚕桑の種子を穫り、
{射狭那子嶽|いさなごだけ}に{就|ゆ}き、真名井を掘り、稲の水種や麦・豆・黍(きび)・粟(あわ)の陸種を作るべく、これを国の長田・狭田(大小の田)に蒔く。昼夜生井・栄井の水を潅(そそ)ぐ。
すなわち、その秋には瑞穂の稲が野一帯に所狭し。
豊受姫命はこれを見て大いに歓んで曰したまわく、「阿那爾愛志(あなに愛やし)。命これを田庭に植えよ」と。
こののち、豊受姫命は、天熊人命をして、天火明命に従って、田作りの事業の補佐けさせ、のちに高天原に上り給う。
故に此処を田庭と云う。丹波の名は、ここに始まる。
天火明命はこののち西に、谿間(但馬)へやってくる。清明宮にとどまり、豊岡原に降り、御田を開き、また、垂樋天物部命をして、真名井を掘り、御田に潅(そそ)ぐ。まもなくしてその秋、穂があたり一面に豊かに実る。その地を名づけて豊岡原と云い、真名井を、御田井と云う。のち、小田井と改めました。(豊岡市小田井・小田井県神社)
名前の「天照国照」「火明」からわかるように太陽の光や熱を神格化した神である。
また、『古事記伝』では「ホアカリ」は「穂赤熟」で、稲穂が熟して赤らむ意味としており、天皇に繋る他の神と同様、稲に関係のある名前でもあります。太陽神、農業神として信仰されている。このようなことから天穂日命の系譜、つまり天津神系の出雲神を源流としていることが伺える。
『新撰姓氏録』では、天火明命の子孫を「天孫族」としている。
天火明命は、熱田神宮大宮司を代々務めた尾張氏(尾張連)、住吉大社(大阪市住吉区)の歴代宮司家の津守氏、籠神社(京都府宮津市)の歴代宮司家の海部氏など多くの氏族の祖神である。天照と天火明は同義語であり、一般的には火明命と呼ばれることが多い。このことからも海に関わる人々によって先祖神とされている。尾張氏は中部地方に勢力を持っていた氏族であり、物部氏と深い関係を持っていたことから、尾張氏が祀る天火明命が天照大神(伊勢神宮)の子とされたと考えられている。
この中で注目しなければならないのは、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)です。
天照国照彦 + 天火明 + 櫛玉饒速日尊
この複数の神を習合させたような長い神名こそ、ホアカリの意味を教えているのだろうか。
特に末尾の名である「饒速日尊」(にぎはやひのみこと、以下、ニギハヤヒ)は『日本書紀』で一度だけ登場してくる箇所があります。『先代旧事本紀』には「物部氏」の祖とあります。それは、神武天皇の条において、神武天皇の東征以前に、大和で王として君臨していた人物であり、「物部氏」の祖であると明記されていると言うことは、「尾張氏」は、「物部氏」と同祖であることになるらしいのです。
また全国の天照御魂神社はその天火明命を祀るところが多いのです。
祭神には諸説あり、『丹後国式社證実考』などでは、{伊弉諾尊|いざなぎのみこと}としている。これは、伊弉諾尊が天に登るための梯子が倒れて天橋立になったという伝承があるためである。
元伊勢(もといせ)とは、もともと皇居内に祭られていた皇祖神の天照大御神を伊勢神宮内宮に至るまでの間に一時的に祀った伝承を持つ神社・場所をいいます。崇神天皇(紀元前148年-紀元前30年)の皇女豊鋤入姫命により倭国、笠縫邑に移され、その後垂仁天皇(紀元前69年-70年)の第四皇女倭姫命に引き継がれ約60年の間をかけて行われたといわれています。
『古事記』には伊勢神宮の創始についてはかかれていませんが、一方、『日本書紀』には、伊勢神宮の鎮座に至るまでに、理想的な鎮座地を求めて各地を転々としたことが記されています。後世に伊勢神宮の荘園となった地域と大部分が一致することから、これらの地域の権威付けのために設定された創作と解釈されています。
元伊勢の一覧
移動した順。
凡例:位置した国 当時の名称 (比定神社名:住所)
倭国 笠縫邑(檜原神:奈良県桜井市三輪)
当時の皇居の瑞籬宮(桜井市金屋)から北に2Km。大神神社をはさんで反対側。
笠縫邑の異説に多神社等もあります。
丹波乃国 吉佐宮(よさのみや)(籠神社・真名井神社:京都府宮津市字大垣、皇大神社:京都府福知山市大江、竹野神社:京都府京丹後市丹後町宮、与謝野町加悦にも吉佐宮の説あり)
倭国 伊豆加志本宮(:桜井市初瀬字与喜山)
木乃国(紀国) 奈久佐浜宮(日前神宮・国懸神宮:和歌山県和歌山市秋月)
吉備国 名方濱宮(伊勢神社:岡山県岡山市番町)
倭国(大和) 彌和乃御室嶺上宮(大神神社:桜井市三輪)
大和国 宇多秋市野宮(阿紀神社:奈良県宇陀市大宇陀区)
大和国 佐々波多宮(篠畑神社:奈良県宇陀市榛原区)
伊賀国 隠市守宮(宇流冨志禰神社:三重県名張市)
伊賀国 穴穂宮(神戸神社:三重県伊賀市上神戸)
伊賀国 敢都美恵宮(都美恵神社:三重県伊賀市)
淡海国 甲可日雲宮(頓宮:滋賀県甲賀市)
淡海国 坂田宮(頓宮:滋賀県米原市)
美濃国 伊久良河宮(天神神社:岐阜県瑞穂市)
尾張国 中嶋宮(酒見神社:愛知県一宮市今伊勢町)中嶋宮は坂手神社(一宮市佐千原)の説もある
伊勢国 桑名野代宮(野志里神社:三重県桑名市多度町)
伊勢国 奈其波志忍山宮(布気皇館太神社:三重亀山市布気町)
伊勢国 阿佐加藤方片樋宮(加良比乃神社:三重県津市藤方森目)
伊勢国 飯野高宮(神山神社:松阪市山添町)
伊勢国 佐々牟江宮(竹佐々夫江神社:三重県多気郡明和町)
伊勢国 伊蘇宮(磯神社:伊勢市磯町)
伊勢国 瀧原宮(瀧原宮:三重県度会郡大紀町)
伊勢国 矢田宮(矢田宮:伊勢市楠部町)
伊勢国 神宮神田:伊勢市楠部町)
伊勢国 家田田上宮(神宮神田:伊勢市楠部町)
伊勢国 奈尾之根宮(津長神社(皇大神宮摂社):伊勢市宇治)
伊勢国 五十鈴宮(伊勢神宮:伊勢市宇治館町)
天照大神がまずこの地に滞在されたという言い伝えがあり、天皇家ゆかりの神社ということで、拝殿には菊の御紋が入った幕が掛けられている。 小さい時に(父が単身赴任で宮津税務署勤務だったので)母と宮津の笠松公園に登った記憶があるので、多分お参りしていると思うが、記憶はない。 お土産やさんや天橋立を見た風情が変わらないようで懐かしかった。
神明造の社殿は、弥生時代の遺跡の柱の遺構が神明造の柱の配置に似ているため、弥生時代の高床式倉庫が発展したものと考えられています。江戸時代以前は伊勢神宮と、信濃国(現在の長野県)の神宮の所領とされた仁科神明宮、丹後国(現在の京都府)の籠神社など少数でした。
笠縫邑の皇居の瑞籬宮(檜原神:奈良県桜井市三輪)をお出になられた後、次ぎに移られた丹波乃国 吉佐宮がこの神社です。
社伝によれば、養老3年(719年)、元々真名井原の地(現在の境外摂社・奥宮真名井神社)に豊受大神が鎮座し、匏宮(よさのみや、与佐宮とも)と称されていました。『神道五部書』の一つの「豊受大神御鎮座本紀」によれば、崇神天皇の時代、天照大神が大和笠縫邑から与佐宮に移り、豊受大神から御饌物を受けていました。4年後、天照大神は伊勢へ移り、後に豊受大神も伊勢神宮へ移った。これによって、当社を「元伊勢」といいます。
社家の海部氏は、彦火明命を祖とし、当社の創建以来、代々奉斎をしてきたとされ、現在は82代目。4代目の倭禰命は神武東征の際に亀に乗って神武天皇の前に現れ、大和国へ先導しました。
元伊勢(もといせ)とは、もともと皇居内に祭られていた皇祖神の天照大御神を伊勢神宮内宮に至るまでの間に一時的に祀った伝承を持つ神社・場所をいいます。崇神天皇(紀元前148年-紀元前30年)の皇女豊鋤入姫命により倭国、笠縫邑に移され、その後垂仁天皇(紀元前69年-70年)の第四皇女倭姫命に引き継がれ約60年の間をかけて行われたといわれています。
天火明命(アメノホアカリノミコト)
【国指定重要文化財】
祭神には諸説あり、『丹後国式社證実考』などでは伊弉諾尊(いざなぎ)としています。これは、伊弉諾尊が天に登るための梯子が倒れて天橋立になったという伝承があるためです。
丹後半島の付け根、天橋立の北西に、2000年以上の歴史を有する元伊勢籠神社があります。籠(こも・かご)[4]は古代にはこれをコと訓みました。コは恐らく古代の竹籠製の船の意味で籠をコモリと訓むようになったことから、祭神は天水分神とか、「み子守の神」とも称されました。とはいえ、義彦火明命・豊受大神・天照大神・海神・天水分命を祭神とするともいうが、諸説があります。
累代の宮司家海部氏もその名のごとく、海民の祖を仰がれる家筋です。『延喜式』の名神大社で、祈年・月次・新嘗の頒幣にも預かった。これは、五畿(畿内)[5]以外の神社では例が少ないものです。
社伝によれば、養老3年(719年)、神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮真名井原(現在の境外摂社・奥宮真名井神社)に豊受大神をお祭りして匏宮(よさのみや、与佐宮とも)と称されていました。『神道五部書』の一つの「豊受大神御鎮座本紀」によれば、崇神天皇の時代、天照大神が大和笠縫邑からうつられて、之れを吉佐宮と申して一緒にお祀りしました。4年後、天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、また、豊受大神は二十一代雄略天皇の御代に伊勢へ移られましたので両大神が伊勢に遷られた後、祭神は「彦火明命(ひこほあかりのみこと)」-またの名を「天火明命(あめのほあかりのみこと)」「天照国照彦火明命」を主祭神とし、それによって、元伊勢といいます。
神主家は丹波国造から始まり、大化改新後に祝部(はふり)となって現在の宮司に至るまで代々海部(あまべ)氏が直系で世襲してきました。現在は82代目。4代目の倭禰命は神武東征の際に亀に乗って神武天皇の前に現れ、大和国へ先導しました。
籠神社の社格は、奈良朝以後は丹後国一之宮に列せられ、延喜式内名神大社にして、神階は最終的に正一位にまでなりました。
国宝 籠名神宮祝部氏系図(海部氏本系図)
元伊勢籠神社の宮司を代々世襲する海部(あまべ)氏の系図があります。これは非常に歴史が長く、何と神代にまで遡る。昭和五十一年六月に、現存する日本最古の系図として国宝に指定されました。同系図は平安時代初期貞観年中に書寫された所謂祝部系図(本系図)と、江戸時代初期に書寫された勘注系図(丹波国造本記)とから成ります。
この系図によると、邇邇芸命(ニニギノミコト)が降臨するよりも前、火明命(ホアカリノミコト)は現在の近畿地方に降臨して国を造り、海部氏の祖となったとされる。「尾張氏」と「海部氏」は同族であることがわかる。 そして、尾張氏の祖は「火明命」(ほあかりのみこと、以下、ホアカリ) です。
さて、この事実は実はとんでもないことなのです。皇族の地位というのは天照大神の正当な後継者だという所にあるわけだが、天皇陛下よりも更に正当な後継者が存在することになれば、それは皇室よりも、更に地位が上ということになるからです。
京都府宮津市は丹後国一宮である籠神社(このじんじゃ)に残された国宝「籠名神宮祝部氏系図(海部氏本系図)」によれば、
愛知県一宮市にある、尾張国一宮である真清田神社(ますみだじんじゃ)は「天火明命」が祭神であり、ホアカリを「尾張国」開拓者の祖神であると説明している。
別天津神(ことあまつがみ)を消した謎
『日本書紀』においては神格が三段階に変化しているという説がある。以下、転機となる事件と内容について概観する。
645年:大化改新。天皇家はこれ以前には天照大神を祀っていない。
「日神」(ひのかみ)=「太陽そのもの」。「アマテル」と称された男神が広く祀られていた。『延喜式』には対馬の「阿麻氏神社」丹波の「天照玉命(アマテルミタマノミコト)神社」などの「アマテル」の読みを持つ神社が見られる。ちなみに、男神アマテルとは、アマテラスの孫のアメノホアカリの別名で、アメノホアカリは尾張氏・津守氏・海部氏の始祖でもある。また、このアメノホアカリの弟がニニギで、神武天皇の曽祖父にあたる。
698年:皇大神宮(伊勢神宮)創建。
天岩戸
「アマテラス」=「天皇家の祖先神」。女神。持統天皇をモデルとして自然神から人格神へと創造された。以後も皇祖神以外の「天照」は「アマテル」と呼ばれた。例えば『更級日記』(1060年頃)でも「天照御神」と表記して「天照」の部分は「アマテル」と読まれ、『先代旧事本紀』の「天照?」にも「アマテルヒルメノムチ」のふりがなが付けられている。
『古事記』によれば、
誓約によって身の潔白を証明したスサノオは、そのまま高天原に居座った。そして、田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らしたりの乱暴を働いた。他の神はアマテラスに苦情を言うが、アマテラスは「考えがあってのことなのだ」とスサノオをかばった。ついにアマテラスはスサノオの行動に怒り、天岩戸に引き篭ってしまった。高天原も葦原中国も闇となり、様々な禍(まが)が発生した。
そこで、八百万の神が天の安河の川原に集まり、どうすれば良いか相談をした。オモイカネ(思兼命)の案により、様々な儀式を行った。
最後にはアメノウズメが岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りをして、胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。
この声を聴いたアマテラスは、何事だろうと天岩戸の扉を少し開け、
「自分が岩戸に篭って闇になっているというのに、なぜアメノウズメは楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」
と問うた。
アメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので、それを喜んでいるのです」
と言うと、アメノコヤネとフトダマがアマテラスの前に鏡を差し出した。鏡に写る自分の姿がその貴い神だと思ったアマテラスが、その姿をもっと良く見ようと岩戸をさらに開けたとき、隠れていたタヂカラオがその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。すぐにフトダマが注連縄を岩戸の入口に張り、
「もうこれより中に入らないで下さい」
と言った。
こうしてアマテラスが岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。
八百万の神は相談し、スサノオに罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放した。
現在では卑弥呼が天照大神のモデルであったとする説もある。
最も初期に誕生し、その神性も特別扱いされる別天津神(ことあまつがみ)は、本来ならば天照大神(あまてらすおおみかみ)を凌駕するはずである。天照大神を高天原の最高神であるとし、またその子孫であると主張することによって自らの王権を権威付けたい天皇、ひいては朝廷にとって、これはいかにも都合が悪い。
この矛盾を解消するために、古事記・日本書紀編纂の過程において別天津神は隠れたことにされた、と考えることができるだろう。つまり、存在はするが影響力は持たない“別格”としたのである。
鳥居
珍しい狛犬 本殿 神明造り
さざれ石
摂内摂社 真名井稲荷社 摂内末社 猿田彦社
天橋立・傘松公園・成相寺
『神社公式サイト』、「延喜式神社の調査」さん