社号 但馬国一宮 出石神社
延喜式神名帳 式内社 但馬国出石郡 伊豆志坐神社八座(名神大)
読み:古 イツシノ、現 いずし
所在地 兵庫県豊岡市出石町宮内字芝地99
旧地名 但馬国出石郡出石郷(神戸郷)
御祭神
天日槍命(あめのひぼこのみこと) 出石八前大神(八種の神宝)
『国司文書 但馬故事記』には、
大巳貴命・御出石櫛甕玉命・天国知彦命・天太耳命・天日槍命・麻多烏(またを)命
『国司文書 但馬神社系譜伝』は、
天日槍命・天太耳命・麻多烏命・稲飯命・御出石櫛甕玉命・天国知彦命・天多他知命
※伊豆志八坐神を出石丘に斎き祀り、八種神宝を納む。とあるが記載が七祭神が記載
例祭日 10月20日
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
出石郡(イツシ・いずし):23座(大9座・小14座)
式内社(並名神大)
中世社格制度 但馬国一宮
近代社格制度 旧国幣中社
社格制度廃止後 別表神社
創建 奈良時代
本殿の様式 三間社 流造
市指定 出石神社社殿 大正
出石神社は、近いこともあり、区内の神社を除けば最もお参りしている但馬一の宮だ。かつては鳥居橋からまっすぐ参道が延びていたが、2004年に起きた台風23号で円山川・支流出石川が氾濫した為、堤防かさ上げ工事と橋の付け替えにより新鳥居橋は、東へ付け替えられた。
但馬の国一宮として別名を「一宮さん」の呼び名で尊敬されており、当時泥海であった但馬を瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を 現出され、円山川の治水に、殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めています。
また、鉄の文化を大陸から持って来られた神ともいわれています。アメノヒボコ(天日槍)は、出石神社の祭神で、日本の正史『日本書記』にも記されている古代史上の人物だが、円山川河口の岩戸を切り開いて、沼地であった豊岡盆地の開拓神だと伝えています。実際にそのころは豊岡盆地中央部は、湖や湿地帯だったといわれます。
8世紀の初めの頃までに記されている「播磨国風土記」には、但馬の郡名が三つ載っています。阿相(アサグ)の郡-朝来郡、夜夫(ヤブ)の郡-養父郡、それに気多(ケタ)の郡です。 詳しくは但馬乃国伝説に書いています。
神階は承和12年(845年)に従五位下を授けられ(『続日本紀』の記述)、貞観10年(868年)に従五位上、同16年(874年)に正五位上まで昇叙した(『日本三代実録』の記述)。延長5年(927年)『延喜式神名帳』により式内社、名神大社へ列格された。
中世においても但馬国一宮として隆盛を誇ったが、永正元年(1504年)に兵火で社殿を焼失し、大永4年(1524年)に再建されて以降はかつての勢いが無くなってしまった。明治4年(1871年)に近代社格制度における国幣中社に列格した。明治43年(1910年)に失火により社殿を焼失し、大正3年(1914年)に再建された。
由 緒
神社の創立年代はあきらかではありませんが、社伝の一宮縁起には、谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀って、天日槍命を祀ったと伝えております。諸書によりますと奈良朝時代すでに山陰地方有数の大社であったことがうかがわれます。
但馬の国一宮として別名を一宮さんの呼び名で尊敬されており、当時泥海であった但馬を瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を現出され、円山川の治水に、殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めております。また、鉄の文化を大陸から持って来られた神ともいわれております。
-「兵庫県神社庁」-
『国司文書 但馬故事記』
人皇七代孝霊天皇四十年秋九月、天諸杉命は、天日槍命を出石丘に斎き祀り、且つ八種神宝を納む。
『国司文書 但馬神社系譜伝』
人皇七代孝霊天皇四十年秋九月、多遅麻国造天諸杉命は、伊豆志八坐神を出石丘に斎き祀り、八種神宝を納む。
御祭神の天日槍命(あめのひぼこのみこと)と、出石八前大神(八種の神宝)については、山や風など自然を神として祭った自然神と、国・地方の首長を祀る神以外に、八種の神宝を祭神とするのは他の神社では例がなく理解しにくいと思っていた。
『古事記』によれば珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種であるが、
『日本書紀』を参考に編纂された『国司文書 但馬故事記』には、
羽太玉一個、足高玉一個、鵜鹿鹿赤石玉一個、出石刀子一口、出石杵*1一枝、日鏡一面、熊神籬一具、射狭浅太刀一口の八種。
*1出石杵…『ホツマ』三十七章では出石杵(いずしほこ)と云う。
さらに、『国司文書 但馬故事記』に、こう記してある。
「文部経道謹んで案ずるに、『古事記』は八種神宝をもって『出石八前大神』となす。これ児戯に似る見解なり。故に採らず。
然りといえども、この日鏡は、天日槍の御霊代となすべく、熊神籬は、稲飯命の御霊代となすべし。その他の理由は、稲飯命の瑞宝なるか。あるいは、また播磨風土記に帰化時代のものと説くをもって疑いあり。故に採らず。」とある。
児戯とは、辞書には「子供の遊び。また、幼稚なこと。」とある。つまり、編纂した10人の一人である、国学允 文部の吉士 経道(ツネマチ)が、その当時(完成974)でさえ、すでに疑わしいので採用しないと記している。
出石八前大神をそれぞれの神の御霊代と理解すると、八種の神宝が本来は形の見えない御霊を、具現化したものとも考えられる。
出石八前大神とは、天日槍が但馬国造になる以前の出石県主をさしているのではないか。(県(アガタ)とは行政単位で、のちに県(コホリ)であり、律令制における郡(コホリ)へと発展していったと考えられている。)
・大巳貴命・・・・・大国主の別名で、国作大巳貴命。但馬では天火明命のこと。出雲国より伯耆・因幡・二方国を開き、多遅麻に入り、伊曾布(七美郡)・黄沼前(城崎郡)・気多(日高)・津(佐津=美含郡の古名)・籔(養父郡)・水石(出石郡)の県を開いた。
・御出石櫛甕玉命・・・大巳貴命の御子。天火明命の娘、天香山刀売命を娶り、天国知彦命を生む。
・天国知彦命・・・初代御出石県主。
・天多他知命・・・天国知彦命の子。2代御出石県主。天波賀麻命を生む。天波賀麻命は3代御出石県主。
・天太耳命・・・天波賀麻命の子。4代御出石県主。
・麻多烏(またを)命・・・天太耳命の子。天日槍命の妻。2代但馬国造、天諸杉命を生む。
・天日槍命・・・初代但馬国造
鳥居橋方面からの参道と社叢 一の鳥居
正面参道 二の鳥居
社号標
鳥居狛犬
手水舎 中門(随身門)
境内御由来板
【左】国道鳥居橋工事で見つかった一の鳥居と思われる柱。神門入口に安置されています。
【右】境内右奥の禁足地 天日槍の墓と伝わる
拝殿
本殿 本殿屋根
境内社 比賣社・夢見稲荷社 天神社
池の島(中嶋)に弁天社
出石(いずし)
神戸郷「和名類聚抄」
原無し、…大同元年、十三戸を封じ但馬国出石神ニ充てる。弘安大田文、出石郡神戸郷田三十四町、地頭大田政直、…、高野平等院領引原ノ荘、領家中納言法印、但馬考云、今神戸郷、宮内、坪井ノ二邑領。引原ノ荘ニ鍛冶屋、上、中、下引原、奥山ノ五邑。
古事記「伊豆志河ニ有リ、伊豆志登賣有り、伊豆志ニ坐ス神社」。続日本紀、三大実録ニ出石ノ神ニ作ル、出石郷宮内村ニ在り。天日槍ヲ祀る。国ノ一宮、天平九年大税帳、出石郡出石ノ神戸、弘安大田文ニ悲田院領出石郷田三十三町、地頭出石信政、一宮出石大社領田百四十一町、、、。
桜井勉『候補但馬考』 出石郡
風土記曰く、古老伝え云う「その昔、天下を治むる御神大穴持命、この郡に至りたまふ。地上に光あるを数夜なり。その光を尋ねて地を掘ること、数仞(スウジン)にして、白石を得る。故にこれに名付ける。その石は、今の一宮の御形(みしるし)これなり。」
倭名類聚抄に載る郷7
小坂(ヲサカ)・安美(アミ)・出石・室野・埴野・高橋・資母(シモ)
以上七郷に、村数78
出石郷
奥小野・口小野・袴座(今は袴狭)・田立(今の田多地)・福井・嶋・伊豆
右小野庄
宮内・坪井
右神部庄
鍛冶屋村・引原下村・中村・上村・奥山・
右引原庄と云う
伊豆志神社(出石神社)
延喜式曰く伊豆志坐神社 八座、並名神大
出嶋(イズシマ)
昔天日槍の新羅より来たり。この国に住所を定めたまいし時、出嶋の人・太耳の女(ムスメ)麻多鳥(マタヲ)を娶ると、日本書紀に見ゆ。またその女(ムスメ)・伊豆志袁登売(イズシオトメ)というとも故事記にあり。これ今の伊豆といい、島という二村の地にて、古くは日槍の住み賜いし伊豆志なり、彼の日槍の新羅より持ち来たり賜う宝物の中の出石刀子(カタナ)、その名のよく叶えるゆえ、後に出石と改めしと一宮の縁起にある。
山名氏の小盗山に居たりしより、彼の地に人民多く住みければ、出石という名も、自ずから彼この事になりて、ここはただの田夫の住処となれり。
天正の初め、また城を有子山(こありやま)に移されしかは、小盗も荒れ果て、今の出石のみ盛んになりぬ。何れも、その名は用いながら、その地は三度変われり。されどみな出石一郷の中のことなれば、古来出石の里と云うことも、すべてこの辺の通名にて、しいては二重の三分つべきにもあらず。
『国司文書別記 郷名記抄』
出石郷(古語は伊豆志)
出石郷は御出石県なり。伊豆志神社あり。この故に名づく。
小野・神原・出島・神戸・伊福部・水上・諸杉村・石部村
『国司文書 但馬故事記』(〃 第五巻 出石郡故事記)に、
国作大巳貴命(くにつくりおおなむちのみこと)は、出雲国より伯耆・稲葉(因幡)・二県(二方)国を開き、多遅麻(但馬)に入り、伊曾布・黄沼前(城崎)・気多(いまの日高)・津・藪(養父)・水石(ミズシ)の県を開きませり。
稲葉(因幡)の八上姫の伝承を『白石伝説』として叙し、出石郡の名称の由来を明らかにする。
大巳貴命、この郡(出石郡)に在りましし時、地上に数夜光有り、命(みこと)その光を尋ねて、地を穿(うが)つこと数仞(スウジン)にして、白石を得たり。
その白石忽然と化して女神と化(な)る。
命、問うて曰く「汝は誰か」
女神答えて曰く
「われは稲葉の八上姫なり。」(中略)
大巳貴命は八上姫を愛し、御出石櫛甕玉命(みいずしくしかめたまのみこと)を生む。
御出石櫛甕玉命は、天火明命(あめのほあかりのみこと)の女(むすめ)、天香山刀売命(あめのかぐやまとめのみこと)を娶り、天国知彦命を生む。
人皇一代神武天皇は、御出石櫛甕玉命の子・天国知彦命を以って、御出石県主と為し給う。
六年春三月、天国知彦命は、国作大巳貴命・御出石櫛甕玉命を水石丘に斎き祀り、御出石神社と称し祀る。(水石 豊岡市但東町水石 出石町桐野に御出石神社(名神大))
天国知彦命は、小田井県主・生石饒穂命(いきしにぎほのみこと)の女(むすめ)・饒石耳命を娶り、天多他知命を生む。
人皇二代綏靖天皇(すいぜいてんのう)六年夏四月、天国知彦命の子・天多他知命を以って、御出石県主と為す。
(中略)
人皇六代孝安天皇53年 新羅王子天日槍帰化す。(中略)
西は多遅麻国に入り、出島(いずしま)に止まり、住処(いどころ)を定む。
人皇七代孝霊天皇38年夏6月、天日槍命の子・天諸杉命を以って、多遅麻国造と為す。
40年秋9月 天諸杉命は天日槍命を出石丘に斎き祀り、且つ八種神宝を納む。(出石神社)
人皇八代孝元天皇32年冬10月 天諸杉命の子・天日根命を以って、多遅麻国造と為す。
天日根命は天諸杉命を出石丘に斎き祀る。(諸杉神社は今は出石町内町だが、当初は小坂村水上に祀られて、古くは諸枌(もろすき)神社と書かれていた。それを天正2年(1574年)に但馬国守護山名氏が居城を此隅山(小盗山)から出石有子山に移すにあたり城の守護神として遷座したとされる。)
(中略)
人皇十六代応神天皇40年春正月 須義芳男命の子・日足命を以って、出石県主と為す。日足命は須義芳男命を荒木山に祀る。須義神社これなり。
人皇十七代仁徳天皇40年夏4月、出石県を以って(出石)郡と為す。
67年春3月 日足命の子・磯部臣命の子・埴野命を以って、出石郡司と為す。
以上
ここで出石丘とは、おそらく此盗山城のあった出石神社付近の袴狭・嶋・坪井・宮内・水上(ムナガイ)の中心にあたる出っ張った丘であろう。袴狭遺跡から船団らしき線刻画木製品が見つかっている。弥生時代後期から古墳時代前期の2点の木製品に線刻画が描かれていました。1点は組み合わせると箱形になるもので、長さ54センチ、幅13センチ、高さ9センチになります。天板と両小口板が欠損していますが、両長側板にはサケ、シュモクザメ、シカ、カツオ、のほか、何重もの方形文様や勾玉形の文様なども描かれています。
袴狭遺跡群は円山川と出石川によって形成された低湿な沖積平野で、太古は黄沼前海(きのさきのうみ)といわれる日本海の入江が入り組んでいた。嶋は出石丘の先端部に位置する出島(いずしま)が転訛し、水上(ムナガイ)はその入江のほとりであろう。日高町にも水上(ミノカミ)がある。上古は同じ黄沼前海の西岸にあたる。
但馬の神社と歴史三部作