概 要

社号 式内社 但馬国気多郡 気多神社
読み 古 ケタ、現 けた
旧くは但馬総社 気多大明神と呼ばれていた
所在地 兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227
旧地名 但馬国気多郡日置郷
御祭神
大己貴命(おおあむち のみこと)
『国司文書 但馬郷名記抄』国作大己貴命(くにつくりおおなむちのみこと)・物部多遅麻連命(もののべたぢまのむらじのみこと)・大入杵命(おおいりきのみこと)
例祭日  10月10日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
気多郡(ケタ):21座(大4座・小17座)
式内社
『気多郡神社神名帳』記載三ニ社のひとつ

中世社格制度 但馬国総社[*1] 気多大明神・
近代社格制度 旧郷社

創建   本殿は延宝5年建築
本殿様式 入母屋造柿葺

境内摂社(祭神)

八坂神社、須知神社、八幡神社、愛宕神社、その他小社が祭られている。

文化財

鰐口(わにぐち) 応永三二年(1425) 市文化財

一口メモ

国道482号線を出石方面に鶴岡橋を渡るとすぐ、但馬国府が置かれた推定地の対岸にあります。かつては、円山川(この地では気多川・蓼川と呼ばれていた)の畔に船着き場がありそこから参道がつながっていたのでしょうが、円山川堤防の上を通る国道482号線のすぐ下にある道に挟まれています。台風23号で国道はかさ上げ工事中。国道からは神社に通じる広い道がなく、鳥居が道路のすぐ下なのですが、神社に行く経路は、鶴岡橋を渡ると上郷の集落に入る旧道に降りてから左折し畑の農道で行ける。かつては但馬総社の立派なお宮で川が交通路だった時との移り変わりが気の毒なようです。

歴史・由緒等

惣社気多神社がある現在の豊岡市日高町上郷地区に関係があるのは間違いないが、口伝によると、気多神社は古くからここに鎮座していたのではなく、頼光寺境内から移転してきたものだというが、元の場所はといえば分明していない。

『国司文書 但馬故事記』
人皇一代神武天皇九年冬十月、佐久津彦命の子、佐久田彦命を以って、佐々前県主と為す。
佐久田彦命は、国作大巳貴命を気立丘に斎き祀る。これを気立神社と称し祀る。また佐久津彦命は佐久宮に斎き祀る。

「国司文書」によれば気多神社は神武天皇九年(前651)に気立(気多)の丘に創建された。
御由来:創立年月不詳なるも大己貴命(葦原志許男命(あしはらのしこをのみこと))と天日槍命と国占の争ありし時、命の黒葛此地に落ちたる神縁によりて早くより創立せられしものならむ。延喜式の制小社に列し、中世以降総社 気多大明神と仰ぎ鎌倉時代社領として大般若田、三十講田其他の神領田を有したりき 明治三年社名を現在の通りに改め同六年十月郷社に列せらる。

大化改新後は国府地区に但馬国府が設立され、気多神社は「但馬国総社」として崇敬を受けた。中世以降は頼光寺に一郷一社の「惣社大明神」として鎮守し、当時の社殿は、檜皮葺き三社造りで、本殿は四間四面欄干造り、拝殿、阿弥陀堂、鐘楼、朱塗り山門等七堂伽藍の整った大社だったが、豊臣秀吉の但馬侵攻により灰燼に帰した。
現在の社殿は延宝五年(1677)の再建であり、大正十二年に大修理を行い現在に至っている。現存する鰐口(わにぐち)は応永三二年(1425)の作で町文化財に指定されている。明治三年気多神社と社名を改め、明治五年郷社に列せられた。


頼光寺

「日高町史-気多郡に隣接する養父神社や出石神社には、神戸が伏していた。一定数の封戸が割り当てられ、その戸が納める租税がその神社の収入となっている。気多郡の中心的な神社は、その名前からして気多神社が中心的な地位を持つ神社だったろうが、神戸は寄せられていない。

---それらの神社は但馬の平野部の、どちらかといえば盆地性の比較的まとまった地域の中に存在していて、その土地の有力豪族から祭祀を受けていたものだった。この意味で、気多神社を奉じたと思われる気多氏の勢力は、養父神社や出石神社を奉ずる祭祀集団に及ばなかったものであろう。だから気多神社には、但馬国府の膝元に存在し、全但馬の中心的な場所を占めていた(惣社)にも関わらず、神戸の施入がなかったのである。」
太古山陰地方は「大国主命」の支配地で、命は但馬や播磨では「葦原志許男命」と称させていた。
新羅国の王子「天日槍」が宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て、「葦原志許男命」と支配地争いになったが、和解の結果、志爾蒿(シニダケ)山頂から両者三本の矢を射て支配地を決めることになった。

天日槍の放った矢は全て「但馬」に落ち、葦原志許男命の放った矢は一本が養父郡に落ち、一本は気多郡に落ちた。
そこで天日槍は但馬の出石を居住地に定め、葦原志許男命は新たに建立された「養父神社」と「気多神社」に「大己貴命」(おおなむちのみこと)の神名で祭祀された。(播磨風土記)

総社(惣社)とは

各所の神社に奉斎する祭神を、一箇所に勧請し合祭した神社の称。惣社とも書く。一般には一国の総社を指していうが、一郡・一郷の総社、寺院の総社、私人宅の総社などの例もある。各国総社の起源については諸説があるが、平安中期から末期にあると推定され、国司が関与した管内諸社の神霊を、国府に近い便宜の場所に勧請し、奉幣・参詣の簡便をはかったものといわれている。『白山之記』によれば、加賀国司の使が毎月朔日に一ノ宮白山社・二ノ宮菅生石部社など国内八社を巡拝していたが、その煩らいを廃するため、国衙に接する一所に合祀し、府南総社と名づけたとある。なお武蔵国総社大国魂神社祠官・猿渡容盛(明治十七年七十四歳歿)の『諸国総社誌料』は、未定稿ではあるが国別に資料を揚げ考証を加えている。 -『神道辞典』-

郷社 気多神社があり、但馬総社であった。日本海側に気多神社(大社含む)が散見されるので、同じルーツを持つのではないかと考えていたが、上記の気多の由来は、神鍋山を気吹戸主神の釜として、常に煙を噴くので気立(つ)が、気多となったのだから、…因幡気多郡(高草郡と合併後、気高郡)や、石川県羽咋市にある能登国一宮気多大社(主祭神は同じ大己貴命)とは直接関係ないことが分かった。気多大社は『気多大社公式サイト』によると、「多くの気が集う神社」として、拙者と同じような感想が付記されている。

「神名帳」によれば、気多神社と称するものが但島、能登、越中、越後(居多神社と称する)にあるほか、加賀には気多御子神社があり、国史見在社として越前に気多神社がある。日本海沿岸にひろく気多の神が祭られていたことを知ることができ、古代における気多大社の神威がしのばれる。

境内・社叢

  
一の鳥居 平成20年(2008)12月31日建立       二の鳥居
新しい鳥居が建てられていました。


社頭 気多神社由緒

  
狛犬

  
境内・拝殿                     拝殿内


拝殿扁額

  
本殿

  
左境内社                     境内右の社 八坂神社、須知神社、八幡神社、愛宕神社

以前はそれぞれ小さな社だったが、新しく合同


本殿右手の森の中に磐座だろうか?

地名・地誌

気多郡 日置郷上郷

気多は古くは気多津県(あがた)なり。気立。
この郡の西北に気吹戸主神の釜あり。常に烟※を噴く。この故に気立(気多)と名付けて『神鍋山』という。

旧気多郡 ほぼ旧日高町域

※「烟」は、「煙」の旧字体

地 図

兵庫県豊岡市日高町上郷227

参 考

「延喜式の調査」さん、他

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