十六柱神社(式内 更杵村大兵主神社)

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社 号 十六柱神社
読み: じゅうろくはしらじんじゃ

古くは「十六柱明神」と呼ばれていた
延喜式神名帳 式内社 但馬国養父郡 更杵村大兵主神社(論社)
読み:サラキネノ-
所在地 兵庫県朝来市和田山町林垣字門前1285
旧地名 但馬国養父郡糸井郷
御祭神 素盞鳴尊(すさのおのみこと)
一説に素盞嗚尊を十六柱明神とする

例祭日 10月17・18日

社格等

創建     年代不詳
本殿様式   王子造

境内摂社(祭神)

甲子神社、行者堂、夜鳴荒神

一口メモ

県道10号線を寺内の信号を左折し、集落内の旧道を突き当たって右折。郷土資料館の西にある。

歴史・由緒等

祭神 素盞鳴尊

由 緒
創祀は不詳ではあるが、本殿は王子造なる立派な社殿である。
-「兵庫県神社庁」-

祭神は素盞鳴尊のみらしい。史料が乏しく、想像する他ないが、三柱神社や城崎の四所神社など祭神が三柱ぐらいはよく見かけるが、素盞鳴尊の一柱なのに十六柱とは随分祭神を欲張った神社である。

林垣は旧糸井郷(糸井庄)の最も下で中心的な場所にあり、おそらく各村々の神社の御祭神をすべて合祀して郷社惣社だと理解できる。8つの集落に各2神祀られているとすれば16柱となる。
更杵神社の記述と重複するが、
『国司文書 但馬故事記』
人皇四十二代持統天皇二年(688)秋七月、
三宅宿祢神床 神法博士 大生部了(オホフノサトル)を率いて、夜父郡更杵村に来たり。一国の壮丁*1四分の一を招集し、武事を講習す。

またその側に兵庫を設け、大兵主神を祀り、これを更杵村大兵主神社と申しまつる。(大兵主神は、素盞鳴神・武甕槌神・経津主神・天忍日神・宇麻志摩遅神・およそ5神)
三宅宿祢神床の子・博床は粟杵邑に止(トドマ)り、大生部了の子・広と与に軍事を掌る。

また兵器を造るため、
楯縫連たてぬいのむらじ吉彦を召し、楯を作らしめ、
矢作連やはぎのむらじ諸男を召し、矢弓を作らしめ、
葦田首あしだのおびと形名を召し、矛および刀剣を作らしむ。
楯縫連吉彦は其の祖・彦狭知命を兵庫の側に祀り、楯縫神社と申しまつる
矢作連諸男は其の祖・経津主命を兵庫の側に祀り、桐原神社と申しまつる。(朝来市和田山町室尾)
葦田首形名は其の祖・天目一箇命を兵庫の側に祀り、葦田神社と申しまつる。
(三宅宿祢博床の子孫を糸井連(イトイノムラジ)と云う)

(中略)

人皇43代元明天皇和銅五年秋七月、糸井連巌床 勅を奉じ、幡文造束緒を召し、織工を集め、綾綿の法を教え、栲(たえ・ぬるで)を和田にぎたに作り、その皮を以て栲布を織らしむ。また蚕を高生に養い、繰糸を以て錦綾にしきあやを織らしむ。

また幡文造束緒を高生に祀り、産土神と為す。これを若宮という。(朝来市和田山町高生田656)

また糸井連巌床の子孫等は、巌床を竹野内丘に祀り、氏神と為し、これを巌床神社という。(威徳神社 朝来市和田山町竹ノ内303-1、威徳は巌床の転嫁と思われる)

『国司文書 但馬郷名記抄』によると、

持統天皇の御世、三宅宿祢神床は陣法博士大生部了を率いて、この地に来たり。
一国の壮丁*の四分の一を召集し、武事を講習す。

四年(690)冬12月、三宅宿祢神床・陣法博士らは兵庫(やぐら)を設け、武事を講ず。
大兵主神を祀り、これを更杵村大兵主神社と申しまつる。

武速素戔嗚神たけはやすさのおのかみは、伊弉諾神いざなぎのかみの御子なり。
武甕槌神たけかめづちのかみは、伊弉諾神の四世孫なり。
経津主神ふつぬしのかみもまた、伊弉諾神の四世孫なり。
天忍日神あめのおしひのかみは、高皇産霊神たかみむすびのかみの子・安産霊神の四世孫なり。
天津久米神あまつくめのかみは、高皇産霊神の八世孫・天味耳命の子なり。

*1 壮丁(そうてい)

    1.  成年に達した男子。一人前の働き盛りの男子。
    2. 労役・軍役にあたる成年の男子。

更杵村大兵主神社さらきねむらのだいひょうずじんじゃの他にも、「兵庫の側に楯縫神社・桐原神社・葦田神社を祀った」とあり、『但馬神社系譜伝』に、桐原神社は諸尾村鎮座(今の室尾)とあるので、兵庫とは「ヤグラ=矢倉・櫓」と読むが、兵庫は一カ所ではなく、各村々に置かれていた兵が集まるヤグラで武具も保管していた場所だろう。気多郡・城崎郡などを見ても兵主神社・楯縫神社・葦田神社・矢作神社などかなり広範囲に分散している。

『但馬郷名記抄』の糸井郷の村名は、更杵・漢部(おそらく「あやべ」と読む)・巌床・和機にぎはた・幡文、楯縫たてぬい土師はじ矢作やはぎ・楯石がある。

但馬各郡の兵庫の項で、楯縫・矢作と同様に、葦田は必ず登場し、矛および刀剣を作る。原料となる鉄は川・沼・湿原の葦などの根に長い年月を経てスズ(褐鉄鉱)が溜まり鉄鉱石となる。太古、日本列島は、「豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)」といわれように、いたるところに沼・湿原があって葦が生い茂っていた。糸井郷で円山川に糸井川が合流するあたりに入江沼・湿原があったかも知れない。その場所は最も低地の今の林垣の川寄となる。

『大田文』には、法勝寺領糸井ノ庄、今は糸井谷と云う。村数八、朝日・竹ノ内・和田・市場・高生田たこうだ・寺ノ内・林垣はやしがき室尾むろお

この二つの史料から、消去法で割り充ててみると、更杵さらきねは寺内、和機わはたは和田、巌床いわとこは竹ノ内、幡文はたあやは高生田、楯石は立石神社のある内海で間違いないが、『大田文』にある市場はどこなのだろうか?市場を開くなら糸井村(和田)から寺内・林垣あたりだろう。林垣は『大田文』(鎌倉期)には登場するが、『但馬郷名記抄』にはなく、残る漢部あやべ楯縫たてぬい土師はじのどれかかだ。『但馬郷名記抄』『大田文』の村名の並びから、『但馬郷名記抄』では郷の中心である更杵を挙げ、巌床・和機・幡文が上から下へ並んでいるようだから、漢部が朝日とすれば、楯縫・土師が残る。まとまって林垣村となったということになる。また『但馬故事記』にある葦田は、『但馬郷名記抄』には見当たらない。林垣の由来として考えられるのは、残る楯縫・土師・葦田だ。林垣は糸井地区では大きな集落である。人口が増えるに従い、鎌倉後期には楯縫・土師はじ・葦田集落の境がつかなくなり、合併し、新しい村名として林垣となったのではないだろうか。土師民部の土師は林、民部が垣に変わっていった。こうした例は気多郡(今の豊岡市日高町)に篠民部が篠垣、猪子民部が猪子垣などがある。

大兵主神は、素盞鳴神・武甕槌神・経津主神・天忍日神・宇麻志摩遅神・およそ5神。これに廃絶もしくは社名変更した楯縫神社(彦狭知命)・葦田神社(天目一箇命)、高生田の若宮神社、竹ノ内の威徳神社、内海の立石神社、朝日の熊野神社などの分祀を集めたものではないだろうか。

境内・社叢

  
鳥居                        拝殿と本殿

それはとこかく人々の信仰が篤いのが伺えるご立派な社殿です。


本殿右手 赤い鳥居だから稲荷社だろう

  
境内社 甲子神社、行者堂             夜鳴荒神

<参考>

更杵(さらきね)神社

兵庫県朝来市和田山町寺内字宮谷

旧村社 御祭神 素盞嗚尊(すさのおのみこと)

『但馬郷名記』によると、持統天皇四年(690)、養父兵団の置かれていた更杵(さらきね)に兵主神を祀ったのが、当社の創祀。 しかし、それ以前の天智天皇の御宇、養父郡の小領日下部都牟自(孝徳天皇第二皇子表米の嫡子)が 当社の祭典を盛大に催したという伝承もある。

近世にいたり、更杵集落が衰退し当社は取り残されて荒廃していた。幕末の頃、当社の再建と移宮をめぐって寺内と林垣の対立があったが、結局、現在地に遷座された。古社地は不明だが、かつての更杵集落は、 現在の和田山町室尾あたりであったという。 「更杵」の名称は天日槍の岳父・前津耳の子孫である佐良公がこの地に住んでおり、佐良公村が更杵村となったという。空想的には新羅根(しらぎね)か祢が訛ったのではないかと思う。 式内社・更杵村大兵主神社の論社の一つ。 明治の神社改めの際に、社殿や境内の貧弱さから 式外社とされてしまったという。

地名・地誌

地 図

交通アクセス

JR山陰本線「和田山駅」より北へ2700m

周辺情報

参 考

但馬の神社と歴史三部作

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