社 号 式内大社 㯮神社
式内社(名神大) 但馬国気多郡 㯮神社
※木偏に蜀という文字。以下[木蜀]と表記
『国司文書 但馬故事記』 蜀椒(ほそぎの)神社
別名八幡宮
神社名を「ほそき」神社と訓じるものもある。
読み 古 ホソキ 現 はじかみ
所在地 兵庫県豊岡市竹野町椒字岩内1738-2
旧地名 但馬国気多郡狭沼郷[木蜀]椒村
御祭神
㯮[木蜀]椒大神(はじかみのおおかみ)
『国司文書 但馬故事記』『国司文書 但馬神社系譜伝』に、
大山守命 (榛原氏の祖)
例祭日 10月15日
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
気多郡(ケタ):21座(大4座・小17座)
式内社(名神大)
『気多郡神社神名帳』記載三ニ社のひとつ
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳(『国司文書 但馬故事記』天武天皇十四年(685)秋、大山守命を蜀椒(ほそぎ)山に祀り、祭式を行う。)
本殿様式 春日造銅板葺
境内摂社(祭神)
おまき桜 狛犬(豊岡市指定文化財)
5年前にここを訪ねたが重大なミスをしていた。おまき桜の上に位置する社が神社だと思っていたのである。よく調べずに思い込んでいたことが恥ずかしくなってくる。ということで再度竹野からこのルートを通って訪れてみた。坂の上に鎮座するのは下宮(祇園社)だった。といっても[木蜀]椒神社も別名は八幡宮だから、便宜上こちらに社を建てたのではないかと思うので、一概にこちらをお参りしても間違ってもいないのだが。(2011..6.11)
由 緒
創立年月不詳なるも仁明天皇承和9年(842)官社に預り清和天皇貞観10年(868)従五位上に叙せられ延喜式(延喜5年、905)の制名神大に列せらる中古以降所傳の明確を欠き明治6年(1873)村社に列し同22年(1889)本殿を再興し幣殿を新築せり。-「兵庫県神社庁」-
『国司文書 但馬神社系譜伝』
人皇四十代天武天皇の十四年秋八月、但馬国司小錦上・榛原公鹿我麿(はいばらのきみかがまろ)これ(大山守命)を祀る。
応神天皇、品陀(ホムダ)真若王の女(ムスメ)高城入姫命を娶り、大山守命を生む。榛原公の祖なり。
『国司文書 但馬故事記-気多郡故事記・下』
人皇四十代天武天皇十三年十月十四日、地震(ナヰ)、気多郡火を噴き、人畜多(さわ)に死し、止美神社(日高町十戸)・太多神社(日高町太田)・矢作神社・栗栖神社等震災に羅る。この月、応神天皇の皇子 大山守命の裔、榛原公鹿我麿(はいばらのきみかがまろ)を以って、但馬国司と為し、位 小錦上を授く。
榛原公鹿我麿は気多郡狭沼を開き、墾田を為す。
十四年秋八月 その祖大山守命を蜀椒(ほそぎ)山に祀り、祭式を行う。
榛原氏の後裔はこの地に在り、蜀椒の実を採集し、油を絞り取り、これを朝廷に献ず。のち貢上を制(さだめ)とす。ゆえにこの地を名づけて、蜀椒村と云う。
由緒 創立年月不詳なるも仁明天皇承和九年(西紀八四二年) 官社に預り清和天皇貞観十年(西紀八六八年)従五位上に 叙せられ延喜式(延喜五年、西紀九〇五年)の制名神大に列せ らる中古以降所傳の明確を欠き明治六年村社に列し 同二十二年本殿を再興し幣殿を新築せり。
特選神名牒
祭神今按蜀椒は今本ホソキとよめれど誤なり和名抄に蜀椒 和名奈留波之加美一名不佐波之加美とみえたればハジカミとよむ べし古事記にもくめのこらがきもとにうゑしはじかみくちひびくとあり さて典薬式に但馬国蜀椒柏子仁各一斗とみえ今も朝倉 山椒とて名物なり此乃椒村はことに其物のよく生ずる所 なりけむ故に其土地に鎮ります神を蜀椒神と号けて祭れるものなるべし。
-「境内案内板」-
鳥居 社号標
カーブの反対側(南側)に県道から細い参道がある。
御神門
境内までの坂道はかなりあるが緩やかな坂 割拝殿
狛犬(豊岡市指定文化財)
狛犬
室町時代の作と推定される木彫りの狛犬で、阿形は高69センチ、吽形は高60センチ。ともに彩色が施されている点は珍しい。昭和52年(1977年)11月15日に竹野町の有形文化財に指定され、同町が豊岡市に編入されてからは同市の文化財となっている。
拝殿
拝殿扁額
拝殿梁彫刻
下社 祇園社(牛頭天王社) 当社の遥拝所と思われる
椒(はじかみ)
『国司文書 但馬郷名記抄』
朱鳥元年夏五月 小錦上 榛原公鹿我麿に位 務広参を授く。墾田の功に依るなり。
榛原氏の後裔は此の地に在り。蜀椒の実を採集し、油を絞り取り、これを朝廷に献ず。のち貢上を制(さだめ)とす。故に此の地を名づけて、蜀椒村と云う。
蜀椒は、保曾伎(ほそき)または伊多智波遅訶美(いたちはじかみ)。また古夫志波遅訶美これなり。
㯮[木蜀]椒の意味は?
㯮[木蜀]椒は「はじかみ」と読むが、地元では「ほそき神社」と言うらしい。山椒の姿から通称ホソキ(細木?)と呼ばれていたのではないだろうか。
鎮座地は古くから東方の番屋峠を越えたり南方の太田越で神鍋高原方面を経由する等して豊岡盆地へ通じており、奈佐川や稲葉(いなんば)川の水運を利用した但馬国の国府との結び付きが想定され、『延喜典薬寮式』諸国進雑薬条に但馬国から進上する事が定められていた「蜀椒」1斗と当神社との関連も指摘されている。
1889年(明治22年)気多郡三椒村
1896年(明治29年)4月1日、郡再編により、気多郡(中筋村、日高村、国府村、八代村、三方村、西気村、三椒村、清滝村)、美含郡(竹野村、中竹野村、奥竹野村、香住村、奥佐津村、口佐津村、長井村、余部村)を城崎郡へ編入した。
1955年(昭和30年)3月3日 竹野村、中竹野村、奥竹野村、三椒村が合併し、新たに城崎郡竹野村
1957年(昭和32年)4月1日 町制施行。竹野町となる。
2005年(平成17年)4月1日、竹野町は、豊岡市、出石町、但東町、城崎町、日高町と合併し、新たな豊岡市が発足。
おまき桜
カーブにあるおまき桜 豊岡市指定文化財
下宮(祇園社)の社前にある推定樹齢500年(平成3年(1991年)時点)の江戸彼岸。樹高14.5メートル、根回り7メートル、目通り樹幹6,05メートル。枝張りは東西15メートル、南北18.5メートルで、樹冠としては占めて4アールに及ぶ。4月下旬の麻の種を蒔く時期に開花するために「麻(お)蒔桜」と命名されたという。昭和54年3月8日に竹野町の天然記念物に指定され、現在は豊岡市の文化財。平成8年3月29日には兵庫県の郷土記念物の指定を受けている。 (ウィキペディア)