名神大 多田神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社 号 式内 多田神社
式内社 摂津国河邊郡 多太神社
読み: 古 タダ、現 ただ
江戸時代は「平野神社」
所在地 兵庫県川西市多田院多田所町1-1
旧地名 摂津国河辺郡(川辺郡)
御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと) 大鷦鷯尊(おほさざきのみこと) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 伊弉冉尊(いざなみのみこと)
例祭日 10月29日 秋祭

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
摂津国:式内社75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))
河辺郡:7座(並小)
式内社(名神大)

近代社格制度 旧県社

創建     天禄元年(970年)
本殿様式   入母屋造 檜皮葺

境内摂末社(祭神)

文化財

重要文化財(国指定)
本殿  入母屋造、檜皮葺。寛文7年(1667年)の建立。
拝殿 入母屋造、檜皮葺。本殿と同時期の建立。
随神門 切妻造の三間一戸八脚門、本瓦葺。本殿と同時期の建立。

兵庫県指定有形文化財
南門 切妻造の三間一戸八脚門、本瓦葺。延宝4年(1676年)
東門・西門 切妻造の高麗門、本瓦葺。江戸時代初期の建立。
六社神社本殿 三間社流造(唐破風付き)、檜皮葺。江戸時代初期の建立。
厳島神社 – 一間社流造、檜皮葺。江戸時代初期の建立。

一口メモ

北摂きっての大社で、今回のなかでも楽しみにしていた。式内社や名神大社は旧道に隣接しているので、都市部や新興住宅地だとナビの示す道はバイバスだったり神社裏手になって逆に苦労する。

歴史・由緒等

猪名川の支流である塩川の扇状地に臨む高台にある山麓の神社。
太田々根子の子孫神人(みわ)氏がこの地にて祖神を祀ったとされる。
中世、多田源氏守護の神として崇敬された。多田荘を根拠地とした多田満仲公が京都平野神社より勧請以降平野神社と称された。

由緒

創立年代は明らかでないが、延喜式内社である。現在の建物は覆屋内にあり正面柱間二、四メートルの社殿である。其の建築年代は内陣廚子内小箱の墨書により元禄6年(1693年)の造営であることが確認される。租物や蟇股なども時代の特徴をよく表している。ただし、背面の蟇股や脇障子の欄間などに桃山風が認められる。記録によると天正6年(1578年)にも再建されたことがわかるので、これはその際の遺材であろう。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

-阜嵐健『延喜式神社の調査』さん-

境内・社叢


鳥居

  
社号標

  
南大門(県指定)              扁額

  
二の鳥居                 随神門(国指定)

  
手水舎                  拝殿(国指定)

   
狛犬

  
拝殿内                  拝殿(側面)


本殿

  
境内右手 天満宮             手水鉢

  
左手 神馬舎の右手には薩摩藩島津家から送られた

日本一の唐椿(キャプテンロー)の老木  右手遙拝所

  
旧多田院釈迦堂跡             田尻稲荷社

  
弁財天ほか諸社

  
六社神社(県指定)

  
ムクロジの木

地名・地誌

川辺郡多田・平野

我が豊岡市日高町(かつては気多郡)と川辺郡は縁りが深い。宝塚市の売布神社と日高町の売布神社の祭神は同じ大売布命で、
『国司文書 但馬故事記』に、
人皇12代景行天皇の32年夏6月、伊香色男命の子、物部大売布命は、日本武尊に従い、東夷を征伐したことを賞し、その功により摂津の川奈辺(川辺)・多遅麻(但馬)の気多・黄沼前(城崎)の三県を賜う。
大売布命は多遅麻に下り、気多の射楯宮に在り。多遅麻物部氏の祖なり。

源頼光
満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、多田源氏となる。その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。1010年頃但馬国司(但馬守)を司る。日高町上郷に頼光寺。

三ツ矢サイダーとバヤリース

アサヒ飲料が発売している炭酸飲料(サイダー)三ツ矢サイダーの起源は、明治時代に宮内省が、兵庫県多田村平野(現在の川西市平野3-23-1)の平野鉱泉を用いて炭酸水の御料工場を建てたことに始まる。その後、工場は三菱に払い下げられ、明治屋が権利を得て、1884年(明治17年)に「三ツ矢平野水」(みつやひらのすい)として販売した。平野水は夏目漱石の『行人』、『思い出す事など』にも登場し、また、1897年(明治30年)には皇太子時代の大正天皇の御料品に採用された。この平野水をベースに、1907年(明治40年)に「帝国鉱泉株式会社」(経営者・平賀敏)が設立され、砂糖を煮詰めたカラメルやイギリスから輸入したサイダーフレーバーを加えた「三ツ矢印 平野シャンペンサイダー」が発売された[2]。1909年(明治42年)に「三ツ矢シャンペンサイダー」に改称した。

帝国鉱泉株式会社は、1921年(大正10年)、「日本麦酒鉱泉株式会社」(ユニオンビール。根津嘉一郎経営)に合併された後、さらに1933年(昭和8年)、大日本麦酒株式会社(アサヒビール・サッポロビール・ヱビスビールを製造販売。三井系)に合併されたが、三ツ矢サイダーはユニオンビールと共に引き続き製造販売された。
1949年(昭和24年)、大日本麦酒株式会社は朝日麦酒株式会社(現在のアサヒグループホールディングス株式会社)と日本麦酒株式会社(現在のサッポロホールディングス株式会社)に分割。三ツ矢サイダーはユニオンビールと共に朝日麦酒が継承し、戦前までの「アサヒビール・リボンシトロン」の組み合わせから、お馴染みの「アサヒビール・三ツ矢サイダー」の組み合わせに代わった。

バヤリース・オレンジは、第二次世界大戦(太平洋戦争)終結後、進駐軍とともにバヤリース飲料が日本に初登場するが、当初は清涼飲料水営業取締規則(明治33年内務省令第30号)の関係で市販することはできなかった。1949年(昭和24年)、戦前からソーダ水「ウヰルキンソン タンサン」(現・ウィルキンソン タンサン)などを手がけていたクリフォード・ウヰルキンソン・タンサン鉱泉が進駐軍向けの輸入を開始、翌1950年(昭和25年)にはゼネラル・フーズと提携し日本国内での製造販売権を取得した。ウヰルキンソンは原液をアメリカから輸入し兵庫県にあった宝塚工場(宝塚市生瀬)でバャリース・オレンヂの生産を行い進駐軍向けに供給した。
1951年(昭和26年)からはウヰルキンソン・タンサン鉱泉株式会社が製造を、朝日麦酒が販売を行う体制になる。その後、1983年(昭和58年)にアサヒビールが商標権を取得し、製造・販売ともアサヒビールとなる。
1989年(平成元年)、ブランド表記を現代仮名づかいベースに改めた。ウヰルキンソン→ウィルキンソン、ジンジャーエール→ジンジャエール、バャリース→バヤリースにそれぞれ変更される。
1990年(平成2年)にクリフォード・ウィルキンソン・タンサン鉱泉株式会社宝塚工場が閉鎖。ウィルキンソンブランドの飲料は、兵庫県明石市のアサヒ飲料工場で生産されるようになる。
1994年(平成6年)にクリフォード・ウィルキンソン・タンサン鉱泉株式会社宝塚工場が解体された。

地 図

交通アクセス・周辺情報

ホームページ

『神社公式サイト』

参 考

阜嵐健『延喜式神社の調査』

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