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社号 式内社 因幡国法美郡 宇倍神社
読み 古 ウヘ 現 うべ
所在地 鳥取市国府町宮下字一宮651
旧地名 因幡国法美郡
御祭神 武内宿禰命(たけのうちすくね のみこと)
例祭日
例祭(4月21日)麒麟獅子舞
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
因幡国:50座 大1 小49
法美郡[ハフミ]:9座 大1 小8
式内社(名神大社)
中世社格制度 因幡国一宮
近代社格制度 旧国幣中社
社格制度廃止後 別表神社
創建 不明
『二十二社註式』によれば大化4年(648年)に初めて社殿が創建されたとある。
本殿様式 三間社流造檜皮葺
国府神社
鳥取県指定文化財 無形民俗文化財「宇倍神社獅子舞」
昭和34年指定。因幡地方特有の麒麟獅子舞で山陰独特の獅子舞の原形を伝えており、先導役の猩々と獅子の頭役、後役が各1名、太鼓・鉦鼓・能管からなる囃子方3名の計6名で構成され、「入座の曲」の調べにあわせて舞う。その舞は「三方舞」と呼ばれるものを本式とし、その単調でゆるやかな動作は伎楽や能楽に近いものとされ、現在は廃れた樗谿神社獅子舞を受け継ぐものであり、因幡に伝承される各神社の麒麟獅子舞は、ここの影響を受けているものが多いとされる。
有形民俗文化財 「宇倍神社御幸祭祭具」
23点が昭和39年に指定。大神輿は明治年間に新調されたものだが、獅子舞に使用される獅子頭や楽器、樗谿神社から譲り受けた正徳4年(1714年)の銘のある藩主池田家寄進の台矛と平矛といった祭具や武具がある。
そのほか、境内林が県指定の自然保護林となっている。
1月3日初詣に出かけました。
当社は、孝徳天皇大化4年(648)の創建と伝えられ、延喜式では県下唯一の名神大社、また一の宮として崇敬篤く、明治4年には国弊中社に列せられました。現在の社殿は、明治31年に完成しましたが、翌32年には全国の神社で最初に、命(みこと)の御尊像と共に五円紙幣に載せられ、以後大正・昭和と数回当社が五円・一円紙幣の図柄となりました。
おかねに御縁があり、商売繁昌の神様として全国からの参詣が絶えません。
『神社公式サイト』
国府神社
本殿左手に鎮座し、建御雷神・日本武尊・速佐須良比咩神・武内宿禰命・伊弉諾尊・菊理姫命・土御祖神・奧津彦命・奧津姫命・宇迦之御魂命の10柱を祀る。元々は宮下神社といい建御雷神と宇迦之御魂命を祀っていたが、大正7年に付近の坂折神社(日本武尊)、小早神社(速佐須良比咩神)、下山神社(武内宿禰命)、白山神社(伊弉諾尊・菊理姫命)、上神社(武甕槌命)、安田神社(土御祖神・奧津彦命・奧津姫命)の6社を合祀し現社名に改称した。ちなみに上神社を因幡国総社の後蹟とする説もある。
古代においては「うへ」神社と清音で呼ばれたが、その語義は詳らかでない。なお近くにあった上神社を境内社の国府神社に合祀しており、この「上神社」が「うへ神社」に関係している説もある。
祭神の武内宿禰命は三百六十余歳の長寿であったことから長寿の神として信仰されている。また明治32年(1899年)、全国の神社の中で初めて当社の拝殿が日本の紙幣の図案となり、その後も数度社殿や祭神が紙幣の図案となったことから、金運・財宝の神としての信仰もある。
なお、『神祇志料』は『国造本紀』に載せる因幡国造の祖先、彦多都彦(ひこたつひこ)命を充てるが、延暦3年(784年)撰述の『因幡国伊福部臣古志』に載せる伊福部氏の祖先、武牟口(たけむくち)命を充てる説もあり、武内宿禰命を祀るとあるのは後世の付会で、本来は伊福部氏の祖神を祀ったものとみられている。
創建年代は不明であるが、伊福部氏がその祖神を祀ったものと思われるので、同氏の当地居住前後であると見られる。ちなみに『因幡国伊福部臣古志』には伊福部氏の第16世、伊其和斯彦宿禰(いきわしひこのすくね)が成務天皇の御代に因幡国造になり、同天皇から賜った太刀等を神として祀ったとの記述があり、同書には当社に関する記載がないので、この記事を当社のことと仮定すれば、この時の創祀であるかもしれない。なお吉田家本『延喜式神名帳』に、仁徳天皇55年、三百六十余歳の武内宿禰が因幡国に下降し、当社の鎮座地である宇倍山中腹の亀金山に双履を残して行方知れずとなったとの註があり、武内宿禰の終焉の地とされ、現在の本殿裏にも「双履石」と呼ばれる2つの石が残っているが、これは古墳の一部が露出したもので、武内宿禰に関する伝説は後世の付会であろうとされる。当地は古代からの遺跡も多く、また律令制下では因幡国の国府が置かれるなど、古くから因幡国の政治・文化の中心地であり、それにともなって当社も尊崇され、『延喜式神名帳』では因幡国唯一の名神大社に列し、因幡国一宮として崇敬を受けた。承徳3年(1099年)、因幡守に任命された平時範が国府に初登庁した翌日に同社へ参拝して奉幣や告文を行い、郡司からの利田請文を奉納したことが知られている。
中世以降、社領を次々に失って衰退に傾き、天正9年(1581年)、羽柴秀吉の鳥取城攻めの戦火で社殿全てが灰燼となり、神職も離散したが、寛永10年(1633年)鳥取藩主池田光仲による社領25石の寄進を受けてから社殿も復興したと載せ、江戸時代初期に復興し、藩政時代を通じて歴代藩主の崇敬を受けた。
明治4年(1871年)に国幣中社に列し、戦後は神社本庁に属してその別表神社となっている。
神職
当初より伊福部氏が神職を世襲して来たとされる。伊福部氏は『因幡国伊福部臣古志』によると、大己貴命の神裔を称すが、第8世を櫛玉神饒速日命としており、混乱が認められる。また、第14世に当たる武牟口命を直接の祖として、平安時代の第36世助茂臣(すけもちのおみ)の子から2流に別れ、第37世厚孝宿禰(あつたかのすくね)の流れが「国造」「大宮司」と称して、途中第55世伊福部信世の時に戦乱のために一時国を去ったことがあったものの、連綿として奉仕して来たと伝える。明治13年(1880年)に第65世の信世の時に神職を離れた(ちなみにこの信世は作曲家伊福部昭の祖父である)。
「ウィキペディア」
社号標 一の鳥居 初詣で賑わっている
参道 ニの鳥居
社頭掲示板
拝殿 拝殿扁額
本殿 社務所
因幡万葉歴史館
鳥取駅(JR西日本山陰本線)から、日ノ丸バス中河原線で「宮下」バス停下車 (乗車時間20分、下車後徒歩すぐ)
因幡国庁跡・万葉の館・雨滝 – 日本の滝百選・鳥取藩主池田家墓所
伊福吉部徳足比売の墓跡・岡益の石堂・梶山古墳・因幡三山
神社公式サイト、他