府社 下御霊神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

 

概 要

社号 府社 下御霊神社
読み: しもごりょう

(式内社 山城国愛宕郡 出雲井於(いずもいのへ)神社 比定)

所在地 京都市上京区新烏丸通丸太町下る信富町324
旧地名 山城国愛宕郡
御祭神
本殿八座

吉備聖霊(吉備真備とされることも多いが、吉備真備は憤死した人ではないので、神社側は六座の神霊の和魂と解釈している)
崇道天皇 皇太子 早良親王(さわらしんのう) 桓武天皇同母御弟
伊予親王 桓武天皇皇子
藤原大夫人 桓武天皇夫人 伊豫親王御母 藤原吉子
藤原大夫 藤原廣嗣(ふじわらひろつぐ)
橘大夫 橘逸勢(たちばなはやなり)
文大夫 文屋宮田麻呂(ぶんやみやたまろ)
火雷天神(からいのてんじん)
(菅原道真とされることも多いが、神社の創建は道真が天神とされるよりも以前なので、神社側は六座の神霊の荒魂と解釈している)
これらの諸神は(吉備真備を除いて)いずれも政争に巻き込まれて憤死した人々で、その怨霊を慰めるために創建されたのが当社である。

相殿一座
霊元天皇(れいげんてんのう)
例祭日 5月第3日曜日(御霊祭)

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
愛宕郡(オタキ) 21座(大8座・小13座)
式内社

近代社格制度 旧府社

創建   貞観5年(863年)
天正18年(1590)に現在地に鎮座
現社殿は天明8年(1788)の大火で旧社殿が焼失したのち、仮皇居の内侍所仮殿を寛政3年(1791)に移建したもの。本殿の前には切妻造の弊殿が取りつき、その前には唐破風造の拝所がつき、更に幣殿から南北に入母屋造の廊がのびている。
屋根をそれぞれ交錯させて一連の内部空間を作る特異な社殿構成は、市内の御霊社に特有のものであり、なかでも当社の社殿は造営年代が古く貴重である。
(昭和58年に京都市指定有形文化財に指定)

境内摂社(祭神)

神明社    祭神 天照大御神、豊受大神
八幡社    祭神 八幡大神
春日社    祭神 春日大神
猿田彦社   祭神 猿田彦大神
相殿 垂加社    祭神 山崎闇斎先生
相殿 柿本歌聖  祭神 柿本人麻呂
稲荷社     祭神 稲荷大神
天満宮社   祭神 北野大神
宗像社   祭神 田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命
五社相殿社 祭神 日吉大神、愛宕大神、大将軍八神、高知穂神、斎部神

文化財

社殿 京都市指定有形文化財

一口メモ

京都御所の南、丸太町通から寺町通を下った一筋目との間に鎮座。神社鳥居は寺町通りに面している。御霊(上御霊)神社と下御霊神社は、御所を挟むようにあり、外せない古社でぜひとも参拝したかった神社の一つだった。

南側入口の2台通れる一通に、家の隣の年配女性に5分ほど参拝したいので路駐をお願いして尋ねてみると、大丈夫でしょう、いいですよと快くおっしゃって下さり感謝し、車を止めさせていただいた。

歴史・由緒等

御霊神社は、各地にあるが、当社公式サイトには、

平安時代は国風文化・貴族文化が隆盛した時代である事は皆様よくご存知だと思いますが、一方で災害や疫病の流行が繰り返し起こった不安な時代でもありました。医術や科学が未発達の時代において次々に起こる災いになす術がなく、官民を問わずその恐怖に畏れおののいた事でしょう。

当時の人々はその原因を貴人の怨霊がもたらすものと考え、御霊(ごりょう)としてお祀りをしお慰め申し上げることにより、災禍からお守りいただこうと御霊会(ごりょうえ)を行うようになりました。
初めは京の郊外でそれぞれの御霊が祀られていましたが、後にまとめて八所御霊としてお祀りする事で御神徳が高まると考えられ当社が鎮座されたものと思われます。
怨霊となった貴人とは政治抗争の中で冤罪を被り非業の死を遂げられた方々でございます。

下御霊神社由緒概要

本殿祭神は、何れも国家の為に御尽しになつた方々でありますが、事に坐して冤罪を御受けになり遂に薨逝せられたのであります。しかるに朝廷においては、後に至つて之を念わせられ、或は尊号を御追称になり、或は位階を御追贈になり、更に清和天皇貞観5年(873)には、勅して大に御霊会を行わしめられました。
この時は吉備聖霊、火雷天神以外の六座であつて、これが当杜の祭神であると伝えられております。当杜は神祇拾遺などによれば、伊豫親王を奉祀したのが本で後に八座即八所御霊として奉祀することとなつたようであります。

かくて朝廷御守護、都民擁護の神として、朝野となく一般に崇敬されているのであります。祭神の中、橘逸勢朝臣が才学に優れて橘秀才と称せられ、又三筆の一として書道の名家でありましたことは、著名なことであります。

相殿霊元天皇は、最も当社を御崇敬になつて両度御参詣あらせられ、御遺勅により、享保17年(1732)11月25日、神主摂津守出雲路直元が命を奉じて謹みて奉祀したので、天中柱皇神と奉称しております。

又当社は下御霊神社と称しておりますが、或は御霊社とも記されているので、維新前の遷宮日時の宣旨には何れも単に御霊社と記してあります。

社地最初は京都の北郊出雲路(御苑内の東北方の辺)でありましたが、後に新町出水の西に移り、天正18年(1590)今の地に鎮座し給うこととなりました。

社殿上古の制は明かではありませんが、近古時代には神殿は賢所御仮殿を御寄附あらせられる御例でありまして、近く年代の明であるのは、宝永7年と寛政2年(1790)とであります。現在の寛政度の御殿で、現存する賢所御殿としては最古のものであります。また表門は仮皇居建礼門を下賜されたものであります。

-神社由緒-

桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この御霊会が当社および上御霊神社の創祀であるとしている。古来より京都御所の産土神として崇敬された。享保年間に霊元天皇の霊を配祀した。

元は出雲路の上御霊神社の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったと伝えられる。後に新町出水に移され、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の都市整備にともない現在地に遷座した。

なお、出雲井於神社は、賀茂御祖神社(下賀茂神社)摂社、通称・比良木(ひらき)神社がある。式内社研究家の志賀剛は延喜式神名帳に記載される出雲井於神社(式内大社)を当社に比定している。

大宝令(700)以降、山代国葛野郡は四つに分割され、鴨川と高野川の合流点より東山、北山までの地域が愛宕郡となり鴨川の東岸が琴倉郷、西岸が出雲郷となる。
「井於(いのへ)」とは、鴨川のほとりのことで、出雲郷の鴨川のほとりの神社という意味。

境内・社叢

  
鳥居・神門                社号標

  
舞殿                   手水舎

  
拝殿                    本殿覆屋

境内社

  
猿田彦社・稲荷社(神門左)  八幡宮、神明社、春日社

  
五座相殿社・大国主命社          天満宮社

地名・地誌

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考


0件のコメント

コメントを残す

Avatar placeholder

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA