式内 倭文神社(与謝野町三河内)

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社 号 式内 倭文神社

式内社 丹後国與謝郡 倭文神社
読み:古 シトリ、現 しどり
所在地 京都府与謝郡与謝野町三河内(みごち)1453
旧地名 丹後国與謝郡

御祭神 天羽槌雄神(あめのはづちおのみこと)
例祭日 三河内曳山祭 5月3日宵宮~4日祭礼

3日宵宮、4日祭礼 織物の神を奉る倭文神社(しどりじんじゃ)の春李例春。3日の宵宮では青年屋台と子供屋台の計12台が地区内を巡行。4日の例祭では華やかに飾られた4台の山屋台をはじめ計12台が巡行する「曳山行事」が行われる。

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
與謝郡(ヨサ):20座(大3座・小17座)

近代社格制度 旧府社
創建     和銅3年(710)
本殿様式

境内摂社(祭神) 稲荷神社・粟嶋神社

一口メモ

国道176号と並行に走る旧国道の三河内から小山をめざして細い道を西へ入ると、大きな鳥居と参道が見える。参道を上れば、府社であっただけあって、広々として大変立派な社だ。

歴史・由緒等

倭文神社は、伯耆一宮名神大倭文神社(鳥取県湯梨浜町)をはじめ、因幡(鳥取県)、但馬(兵庫県)、京都府舞鶴市今田にも同名社があります。

天羽槌雄神は、天羽雷命(あめのはづちのみこと)や、倭文神(しとりのかみ)、倭文神(しずのかみ)とも呼ばれる。天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(あや)を織ったとされる。同じ織物の神では栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)、天棚機姫命(あめのたなはたひめのかみ)が挙げられるが、天羽槌雄神は機織りの祖神とされている。また倭文(しどり)氏の遠祖でもある。全国の倭文神社、静神社、服部神社などで祀られている。

丹後ちりめんで知られる丹後には、機織りと養蚕の神を祀る神社が多い。大川神社(舞鶴市)、籠神社(宮津市)、藤社神社(京丹後市)、木島神社(京丹後市:金刀比羅神社境内)などの養蚕神、倭文神社(舞鶴市及び与謝野町)、棚機神社(京丹後市:溝谷神社境内)などの織物神を祀まつる多くの神社がある。

織物神としての祭神は、天照大神(あまてらすおおかみ)と天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ:機織の祖神)、養蚕神の祭神として和久産巣日神(わくむすびのかみ:蚕と桑、穀物生育の神)と大宜津比売神(おおげつひめのかみ:穀物と養蚕の神)を祀る。

当神社は祭神を天の羽槌雄の尊と申し上げ延喜式内社であって從二位に叙せられ昭和 十九年十一月二十日付け神祗院第一九第三三號を以て府社に昇格されました。 終戦後全般に社格は廃止されましたが神代の昔皇祖天照大神岩戸幽居の際諸々の神た ち深く憂虚され岩戸神樂を奏し大神をお慰めしようと香山の五百の眞坂樹に天の羽槌 雄命の織り成せる倭文(織物の名)など種々の幣を取りそへ調度を整へて捧げ給ふた ので大神深くお悦びになり再び世に出て給ひし事から後世織物の祖神として奉祀する ようになった神様であります。
当社は織物の祖神のみならず五穀豊穰病難療養商賣繁昌の霊現あらたかな神として古 来藩主を初め多くの参拝者の絶えない神社であります。(神奈備へようこそさん)

三河内地区のほぼ中央に位置する倭文神社は、織物を始めた祖神とされる天羽槌雄神(あめはつちおのかみ)を祀る旧府社です。
神社の創立は明らかではありませんが、当初は三河内の筬村(おさむら)に鎮座し、貞応2年(1223)鎌倉時代前半に現在の地に遷座したと伝えられています。江戸時代には石崎大明神と称していましたが、明治になって倭文神社と改められました。

本殿は、東西に長い境内の西奥にあり、前に幣殿・拝殿を控えています。建物様式は入母屋造(いりもやづくり)、銅板葺きの一間社(いっけんしゃ)で、正面に唐破風(からはふ)を付け、縁が回っています。組物により軒の装飾を賑やかにし、向拝に天井を設けるなど、江戸時代を通じて丹後地方の神社本殿にみられる特色を表しています。

本殿の建立年代は、社蔵の「歴代記」の文政4年(1821)の条に「是 三河内石崎大明神再興有之候」とあることから、江戸時代中期の文政4年(1821)に再建されたことが分かります。
例年、5月4日には三河内曳山祭が行われ、京都府登録文化財の曳山行事が執り行われています。例祭当日は、各町内の山屋台が倭文神社前に集結し、本殿前では神楽が奉納されます。

※府社・県社

明治維新以降、律令制下の『延喜式』による制度に倣って、新たに神社を等級化すべく作られた社格の制度(近代社格制度)。第二次世界大戦後に廃止されたが、今日でも「旧社格」などの名称で神社の格を表すものの如く用いられている。

社の格を大きく官社と諸社(民社)、無格社とに分ける。諸社は府県社・郷社・村社に分類される。府県社は府、県、北海道の道、台湾の州、台湾・樺太の庁から奉幣を受け、郷社は府県または市から奉幣を受けた。

境内・社叢

  
鳥居                    今年は1300年奉祝大祭らしい

  
一の鳥居横の境内社 境内

  
美しい参道               古い狛犬

   
境内狛犬

  
境内参道狛犬

  
二の鳥居両脇の狛犬

  
ニの鳥居                     割拝殿

  
割拝殿内

  
拝殿                       本殿

  
境内社                      本殿左の境内社三社


本殿右の境内社ニ社

地名・地誌

「和名抄」與謝郡三河内郷
江戸期~明治22年 与謝郡三河内村
明治22年~昭和30年 与謝郡三河内村
昭和30年 与謝郡野田川町
平成18年 与謝郡与謝野町

三河内という地名の由来は、野田川・岩屋川・加悦奥川の3川に三方を囲まれていることに

よるという。また当地の式内社・倭文神社の祭典には、野田川畔から対岸明石村の須代神社にむけて神招きを三度呼ぶ行事があり、この招きにより須代社の祭神須瀬理妃が、弟の天太玉命・天明玉命とともに当地へ来て祭礼を行うという。ここから「御神地(みごち)」と称したとも伝えている。
以下、「丹後の地名地理・歴史資料集」さんより引用

三河内の銅鐸

加悦谷は三河内を境として加悦町と野田川町にわかれる。享保十七年(一七三二)の四月九日、三河内梅ケ谷(うめがえ)の治助という者が、比丘尼山の大木の根元から高さ一○七センチと七○センチの大小二個の銅鐸を発見して持ち帰り、梅林寺に納めた。

人々が寄り集まっていろいろ考えたが、どうしても何物かわからない。そこで藩主青山候にさし出したが、ついにわからないままに再び梅林寺へ返された。小さい方は破損していたので寺の釣鐘を鋳る時に鋳つぶしたと伝えられている。この銅鐸は袈裟襷文様で、人物禽獣の絵のあるまれに見る立派な物であるが、須代銅鐸よりも新しいといわれている。昭和三三年三月重文に指定され、須代銅鐸とともに京都博物館に陳列されている。

この梅林寺の近くの倭文神社の社伝に、昔神の木の下に人々が集まって宝物を祀り、供物を飾り宝器をならして植付けを占ったという。この宝器が銅鐸ではなかったかと思われる。銅鐸の出た桑飼明石の須代神社はこの社のちょうど野田川をへだてて真向いにあり、その中間に一本木がある。昔はここに神の木が植えてあったという。榊の木のことであろう。
倭文神社の祭りの時、祭礼の行列は橋の上からこの一本木を見とおし、須代神社に向っていっせいに「おーい」と呼びかけるならわしがある。昔両社の神は夫婦であったという。倭文神社の祭神は天羽槌雄命で、織物の神様である。しずり布を織った倭文部の氏神である。しずリ布とは椿布、麻布、苧布(からむし)のたて糸を青糸などに染め、横縞に織った布である。舞鶴にも倭文神社があり、やはり天羽槌雄命を祀っている。
境内に古墳があるが、出雲に関係のある布を織り銅鐸をもったこの二社の部族は同族で、部落こそちがえ力をあわせて生活したのであろうか。そしてある時突然他の部族から征服を受けた時に、それぞれその宝器を大急ぎでかくしたのではなかろうか。

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考

『延喜式の調査』さん、他


0件のコメント

コメントを残す

Avatar placeholder

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA