社 号 兵主神社
読み:ひょうすじんじゃ
江戸時代は「兵主五社大明神」
通称 ひょうすさん・ひょうさん
延喜式神名帳 式内社 播磨国多可郡 兵主神社
読み:ヒヤウス
所在地 兵庫県西脇市黒田庄町岡372
旧地名 播磨国多可郡
御祭神 大己貴命 八千戈命 葦原醜男 大物主命 清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠命
例祭日 10月第2日曜日
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陽道 式内社140座 大16(うち預月次新嘗4)・小124
播磨国(ハリマ) 式内社50座(大7座・小43座)
多可郡(タカ) 6座(並小)
近代社格制度 旧県社
創建 延暦3年(784)6月14日
本殿様式 権現造 銅板葺
別当寺 明鏡山神通寺
境内摂末社(祭神) 琴比羅神社
拝殿 兵庫県指定文化財
兵庫県内に兵主神社は圧倒的に但馬に多いが、丹波国には一社、播磨国には射楯兵主神社と当社がある。当社で県内式内兵主神社はすべて参拝することができた。但馬のそれは軍団配備とつながりがあるが、当社は大和穴師兵主神社の勧請らしい。しかし、御祭神が大己貴命であることから但馬の兵主神社のように軍団の兵庫が置かれその側に兵主神大己貴命を祀った神社ではないかと捨てがたい。
戦国時代、豊臣秀吉が三木城の別所長治を攻める際、家臣の黒田官兵衛に戦勝祈願させた古社。
その奉納金で改築された拝殿は、安土桃山時代の建築様式をとどめた貴重なものです。
宝亀5年(774)1月播磨掾を拝した岡本修理太夫は大和国岡本邑より当地に赴任し延暦元年(782)正月当社付近の森地四町余を開き神社の造営いに着手し同3年甲子6月14日兵主神社を勧請す。
氏子
多可郡黒田庄町の内大字岡、喜多、大門、津万井、福地、大伏、及び西脇市蒲江の7大字を氏子地域とす。
その他
延喜式神名帳により延喜5年(905)式内社に指定。明治6年(1873)11月郷社。大正8年12月県社指定され昭和20年終戦と共に社格廃止
昭和58年(1983)3月勧請千二百年祭執行「社頭掲示板」
由 緒
「従五位下大和掾恒岡は、大和国の南都の岡本に住す。臣知恒は恒岡の次男にして、ここに宝亀五年(774)正月十日始めて播磨掾を拝す。同年三月播磨国多可郡大志野の岡城に赴く。延暦元年(782)正月、城の南に森四町余を開く。同三年甲子六月十四日兵主五社大明神を勧請せり延暦三年十月岡本修理大夫藤原知恒誌す」岡本修理太夫の子孫とみられる末流は本町、氷上郡氷上町、氷上郡山南町及柏原町に住居せられているようである。
岡本修理太夫藤原知恒
弘仁8年(817)酉7月17日卒ス茅葺き拝殿(安土桃山時代建立)豊臣秀吉が三木城(別所長治)攻略後、黒田官兵衛に命じ寄進されたと伝えられる。
-「兵庫県神社庁」-
社伝によれば、大和から播磨の国衙に赴任した岡本修理大夫が延暦元年(782年)に森林を拓いて社をつくり、 延暦3年、大和穴師の兵主神を勧請したものと言う。
別当寺の明鏡山神通寺は明治初年に、廃寺となつたが、現在の社務所の位置に社坊があつたという。
一ノ鳥居 二ノ鳥居
社号標 手水舎
鳥居・随神門 拝殿
拝殿 黒田官兵衛
本殿
本殿左境内社 本殿右境内社
道路をはさんで神社向かいに鐘楼。神仏習合時代の名残り 馬像
黒田官兵衛ゆかりの里、西脇
豊臣秀吉の天下統一を支えた稀代の軍師、黒田官兵衛。
その生誕地は・・・西脇市黒田庄町黒田。
黒田官兵衛は、戦国時代に活躍した武将で、豊臣秀吉の天下統一を支えた稀代の軍師として名が知られています。実は、この黒田官兵衛の生まれは、黒田庄町黒田だという説が地元では古くから伝えられています。
その官兵衛を主人公として、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」が、2014年1月から放映されることになっています。これを絶好の機会として、地元でも「北播磨黒田官兵衛生誕地の会」が発足するなど、多種多様な活動が盛り上がってきています。もちろん、市においても、観光地としての魅力を発信するため、関係者や関係団体などと協力して積極的に取り組んでいきます。
ここでは、多くの方に「官兵衛の里・西脇」に関心を持っていただくため、黒田官兵衛にまつわる市内の様々な活動をお知らせしていきます。
「西脇市HP」
公共
JR加古川線「黒田庄駅」より北北東へ350m
車
中国自動車道「滝野社IC」下車、国道175号線を北上し、黒田庄町畑瀬橋の信号を右折し次の信号を左折、100m進むと右手に大鳥居が見える。
「兵庫県神社庁」、「延喜式神社の調査」さん、他