社号 式内社 但馬国朝来郡 兵主神社
読み:古 ヒャウズ 現 ひょうず
所在地 兵庫県朝来市山東町柿坪字棚田972
旧地名 但馬国朝来郡朝来郷朝来村
御祭神
大己貴命(オオナムチ)=大国主
『国司文書 但馬神社系譜伝』素戔嗚命・天砺目命
例祭日 10月17日
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
朝来郡(アサコ・あさご):9座(大1座・小8座)
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式 春日造 柿葺
境内摂社(祭神)
兵主神社は、地元に多く有り、神社に興味を持つきっかけになった一つなので、朝来の兵主神社を訪ねるのは楽しみだった。調べてみると式内兵主神社論社といわれる社が同じ地区に3つある。
式内・兵主神社の論社。
由 緒
創祀年代不詳。一説には、寛永14年(1633)の創立とある。
天平9年(737)の『但馬国正税帳』には、「朝来郡押坂神」とある押坂神が当社だとも考えられている。
-「兵庫県神社庁」-
『国司文書 但馬神社系譜伝』
朝来郡朝来村鎮座
祭神 素戔嗚命・大砺目命
人皇三十七代孝徳天皇の大化三年秋三月、朝来軍団の主帳・朝来直・知嘉麿は、兵主神社を兵庫の側に祀り、兵庫守護の霊神となし、かつ祖・天砺目命を下座に合祀す。
「延喜式神社の調査」さんによると、
天平9年(737)『但馬国正税帳』に押坂神とあり『新抄格勅符抄』にも忍坂神の神戸が但馬に二戸とされている。この押坂神は延喜式に見えないのでこの神社が兵主神社となったとの説もある。
寛永10年(1633)創立との説もあり、これは山東町森の八幡宮の地より現社地に移った時とも推測される。
『国司文書 但馬故事記』第一巻・気多郡に、
人皇36代孝徳天皇の大化3年(647)、多遅麻国気多郡高田村において、兵庫を造り、郡国の甲冑・弓矢を収集し、以って軍団を置き、出石・気多・城崎・美含を管どらせる。
『国司文書 但馬故事記』第二巻・朝来郡に、
人皇36代孝徳天皇の大化3年(647)、多遅麻国朝来郡朝来村において、兵庫を造り、郡の甲弓矢を収集し、以って軍団を置き、朝来・夜夫・七美三郡を管どる。
(中略)
主帳・朝来直智嘉麻呂は兵主の神を兵庫の側に祀り、兵庫守護の霊神と為し、かつ己の祖・天砺目命をその下座に合わせ祀る。(式内 兵主神社:朝来市山東町柿坪)
閏(うるう)8月 進大弐 忍海部(おしぬみべ)の広足を以って多遅麻の大穀と為し、生民四分の一を点呼し、武事を講習させる。 広足は陣法にくわしく、兼ねて教典に通じ、神祗を崇敬し、礼典を始める。
『国司文書 但馬郷名記抄』には、
朝来村(柿坪)
朝来直在住の地なり。朝来直は、丹波国 今は丹後国加佐郡朝来(舞鶴市朝来)の人。
孝徳天皇の御世、朝来軍団を置く。故に兵庫を建て、兵主神を祀る。
『国司文書 但馬神社系譜伝』
朝来郡朝来村鎮座とあり、朝来村(柿坪)とあることから、朝来という名前発祥がここ柿坪の古名であるようだ。だとすれば、
朝来村→柿坪、朝来軍団を置く。故に兵庫を建て、兵主神を祀る。
したがって八幡神社のある森・三保辺りは周囲が田園地帯にある小高い丘だが、兵庫が置かれた側であるなら朝来の式内兵主神社はここではないだろうか。
兵庫県には、兵主神社が多く、20社近く存在する。
式内社では全国に19社記載されている中で、但馬国内には7社もある。
『国司文書 但馬故事記』で、年代を調べた。
その但馬で最初の兵主神社は朝来郡兵主神社である。
朝来郷
「国司文書別記 第二巻 朝来郡郷名記抄」に、
朝来山あり。この故に名づく。朝来は諸神朝来(アサキ)の義、朝来直(あたえ)在住の地なり。朝来直の祖・天礪目命神社(アメノトメノイコト)あり。朝来神社という。朝来山にあり。天礪目命は、彦坐命陸耳征伐供奉(グブ)の神なり。
朝来郷朝来村(柿坪)
『国司文書 但馬郷名記抄』
朝来郷
朝来山あり、この故に名づく。朝来は諸神朝来(あさき)の意味。朝来直在住の地なり。朝来直の祖・天砺目命神社あり、朝来神社という。朝来山にあり。天砺目命は彦坐命、陸耳征伐供奉(グブ)の神なり。
朝来村(柿坪)
朝来直在住の地なり。朝来直は、丹波国 今は丹後国加佐郡朝来(舞鶴市朝来)の人。
孝徳天皇の御世、朝来軍団を置く。故に兵庫を建て、兵主神を祀る。
忍坂村・與布土・波陀村・巨勢威田村・美保村
『校補 但馬考』「大田文」曰く、
大月・末歳(マッサイ)・楽音寺・柿坪 以上、大月庄
廻間(ハサマ)・喜多垣・與布土・森・柊木・溝黒・越田・三保 以上、與布土ノ庄
巨勢威田は越田、美保村は三保。忍坂村・波陀村は残る柊木(ひいらき)、喜多垣、溝黒・森だろうが分からない。
JR山陰本線「梁瀬駅」より南東に3km
起稿 2011/10/10
但馬の神社と歴史三部作