社号 式内社 但馬国気多郡 賣布神社
読み: 古 ヒメフ、現 めふ
所在地 兵庫県豊岡市日高町国分寺字山ノ脇797
旧地名 但馬国気多郷高田郷石立村(射楯)
御祭神 大賣布命
配祀 毘沙門天 稻荷大明神
例祭日 10月15日
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
気多郡(ケタ):21座(大4座・小17座)
式内社
『気多郡神社神名帳』記載三ニ社のひとつ
近代社格制度 旧村社
創建 不詳
本殿様式 流造板葺
三柱神社
但馬国府推定地の祢布ケ森遺跡(豊岡市役所日高総合支所前)の北、国道312号線国分寺トンネル南出入口の東下。当店から最も近い式内社。だからか、いつでも行けるので最も遅くなった。というか境内からして村の小さな神社であるし、そんなご立派な式内社だったとあとで知ったのである。
創立年月不詳
往古は石立村の西南字祢布ヶ森*1に鎮座ありしを中古字天神という同村東の山腹に遷す*2。
然るに同所は大雨の為、境内大いに損ぜしかば文久2年(1862)現境内に移転せり。
王朝時代延喜式の制小社に列し万延元年本殿を再建し、明治6年(1873)10月村社に列せらる。大正10年(1921)本殿の屋根替えあり。
-「兵庫県神社庁」-
『国司文書 但馬故事記』
人皇十二代景行天皇三十二年夏六月、
伊香色男命の子、物部大売布命は、日本武尊(やまとたける)に従い、東夷を征伐せしことを賞し、その功により摂津の川奈辺(川辺)・多遅麻(但馬)の気多・黄沼前(城崎)の三県を賜う。
大売布命は多遅麻に下り、気多の射楯宮に在り。多遅麻物部の祖なり。物部連大売布命、長く天皇に仕え、人皇十三代成務天皇の六十年多遅麻に還る。
人皇十五代神功皇后立朝の二年五月二十一日、
気多の大県主物部連大売布命薨ず。寿百五十歳。射楯丘(1)にもがりす。
「日高村郷土誌」
当社は延喜式内の神社にして、元は石立村に在りしが、同村の国分寺村と合し国保村と改称せしにより、今の所属村名往古と異なれり。
「神名帳考証」には、当社祭神を埴安姫、又は「但馬式社鎮座考」には売布神社埴安姫命 禰布森大明神 高田庄石立坐とせり。
当社は大洪水のため、中世には天神山に鎮座しており、
文久二年(1862)、大雨で境内が荒れたため元の現社地に遷座した。
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『式内社調査報告』古社地
豊岡市日高町祢布(禰布ヶ森遺跡)
豊岡市日高町国分寺(天神山に小祠) 荒神神社境内
明治維新の際に国分寺境内から遷された村社・荒神神社がある。
神社前の石立旧道 社号標・社殿
本殿覆屋
拝殿棟彫刻 神社木札
境内社
高田郷
夏栗・久斗・禰布(祢布)・石立・国分寺・水上
石立
(*1)射楯丘
「太田文」気多郡高田郷石立村
石立のもとは射楯。
国分寺
古くは国保村。
国分寺村、石立村が国分寺区となっている。
「延喜式の調査」さん他