式内 御井神社(兵庫県養父市大屋町)

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社号 式内社 但馬国養父郡 御井神社
読み:古 ミヰ 現 みい
所在地 兵庫県養父市大屋町宮本字高尾481
旧地名 但馬国養父郡大屋郷
御祭神
御祭神 御井神(ミイ)
配祀 脚摩乳命 天穂日命 素盞嗚命 手摩乳命 熊野橡日命 田心姫命
配祀 奇稲田命 天津彦根命 天忍穂耳命 市杵島姫命 活津彦根命 湍津姫命
配祀(神社明細帳) 大屋彦命 大屋姫命 抓津姫命

『国司文書 但馬神社系譜伝』御井比咩命(みいひめのみこと)
例祭日 5月3日
「まいそう祭り」 1月14日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
養父郡(ヤフ・やぶ):30座(大3座・小27座)

近代社格制度 旧村社

創建     年代不詳(『国司文書・但馬故事記』第五巻・出石郡故事記に「人皇6代孝安天皇53年(前340)、新羅国王子天日槍命帰化す。天日槍命

鵜草葺不合命ウガヤフキアエズノミコトの御子、稲飯命5世の孫なり」とあるのでそれ以前)
本殿様式   入母屋造銅板葺

境内摂社(祭神)

 

加遅屋神社・田村神社・八幡神社・天神神社・大己貴神社
須賀神社・諾冉神社・嚴島神社・若宮神社・鈴鹿神社

文化財

随神像 市文化財

一口メモ

『播磨風土記』天日槍と伊和大神が藤無山で黒葛を投げ合い、三方へ落ちた。天日槍の黒葛は養父と気多に落ちた。播磨の御形神社(宍粟市一宮町森添280)とここ御井神社は藤無山の南北にほぼ同距離に位置する。御井神社は元は御祓山にあったとされることから、天日槍(ら)は藤無山に近い明延の鉱物を求めて但馬国に入った最初のルートがここからではないか。そのルートはこの県道6号線ルートではないかと前から思っていることが、その伝承が今回確かめられた気がする。一宮の御形神社から帰路で通ったが険しい山道だけど、すぐ南側の一宮町は隣りで近いのである。藤無山から御井神社と御形神社はほぼ同距離である?!

この伝承から実際に御形神社から同社まで狭い峠道を車で辿ってみた。高低差は少ないがかなりの山道。

以上の『播磨風土記』から、天日槍の黒葛は養父と気多に落ちた。そして同じ御井神社がその通り現存するのである。この御井神社は、但馬国府を置いた気多郡(今の豊岡市日高町土居)にあるし、八上姫につながる社は、天河森神社(今の豊岡市日高町山本)にもあるのだ。天日槍は初代多遅麻国造となった人物である。天日槍の伝承に従えば、この御井神社と日高町御井神社は但馬国成立でかなり重要な場所ではないかと考えている。(新羅国王とされているが、韓国人ではなく当時朝鮮半島南部今の韓国は倭国であり天日槍は天皇の子孫で日本人である)

国道9号線から県道6号に入り、大屋市場交差点をまっすぐ行くと明延から宍粟市一宮町で国道429号線へ通じる県道を進む。

集会所の前の道を進むと鳥居が見えた。道でお会いした近所の婦人に聞くと、車でも近くまで上がれる。歩くときついでと言われた。車で鳥居をくぐりしばらく進みかけたが、小型車一台が通れる車幅で傾斜がある。路面が湿っていてスリップしそうなので、安全に鳥居前に停めて歩いて登る。参道の石段や木で仕切られた段は、神社や城山などでもっときつい道に慣れているが、すぐそばにその道が見えたのでそちらをとった。平坦なので比較的楽ではあったがその分かなり歩いた。

祠がある道をさらに登るとようやく社殿らしきものが見えた。回ると山門で、小さな祠がある平地を逆に進むと大きな社殿があるので本殿かと思ったら八幡社らしい。さらに上に大きな社殿や建物が見える。山中にすれば広大な社地。上記のように境内社が大変多い。大屋町で最も大きな神社だから、大屋谷十二ヶ村、建屋谷十四ヶ村の総社として崇敬された神社らしい。大屋町の謂われはこの大屋彦命からだろうか。

子供たちからお年寄りまでハイキングコースとしては比較的楽であり美しい神社であるのでおすすめ。

歴史・由緒等

人皇一代神武天皇の八年夏六月、
稲葉(因幡)の八上姫は、大巳貴命との間に御井比咩命を生み、嫡妻の須勢理姫命を恐れ、(御井比咩命を)大屋の比々良木の下に置いて去る。木俣神これなり。御井は幸せになり。
故に土地の神ら崇めて、これを大屋村に祀る。

『国司文書 但馬神社系譜伝』

 創祀は不詳であるが、元々は現在の地より北東約2kmにある御祓山山頂に鎮座していたが、天文年間(1532~1554)に火災に遭い社殿を焼失す。これによって天文15年(1546)に現在の地に遷座建立された。

御祓山山頂付近には、宮屋敷・神子屋敷の小字が残っている。

別称は岩井牛頭天王社と呼ばれていた。

「兵庫県神社庁」

境内・社叢


鳥居

  
随神門 本来の参道にある

  


随神像 市指定文化財

この随神像は御井神社が天文15年4月8日(1546)に、御祓山から現在の地に遷宮された際に随神されたものです。

耳、手などの手法から、室町期以前に彫成されたものと思われる。

二躰とも寄木調成で彩色を施してあったが、ほとんどが落剥して破損が甚だしく、当時の面影を見ることができないが、郷土の歴史を知る貴重な資料として大切に保存すべきものである。

  
参道途中の境内社


参道境内社

  
本殿参道

  
拝殿                        拝殿・本殿

  
本殿左境内社                    本殿右手前境内社

 

葦原志許乎命(大国主)・伊和大神・大神と天日槍命(アメノヒボコ)

渡来神である天日槍命が宇頭川(揖保川)にやってきた。土着の神である葦原志許乎命に「宿るところはないか」と尋ねたところ、志許は海中を許可した。すると日槍は剣で海水をかき混ぜて勢いを見せ、そこに宿った。日槍の勢いに危機を感じた志許は、先に国占めをしようと川をさかのぼっていった。このとき丘の上で食事をしたが、このとき米粒を落としたため、粒丘と呼ばれるようになった。…
葦原志許乎命と天日槍命は山からお互い3本の葛を投げた。志許の1本は宍粟郡御方に落ち、残り2本は但馬の気多郡・養父郡に落ちた。日槍は3本とも但馬に落ちたため、但馬の出石に住むことになった。
播磨を国占めする神、天日槍命と争う土着の神として葦原志許乎命・伊和大神・大神が記されているが、同神か別神かについて諸説ある。
神や天皇が物を落とす(上記のように意識的に落とす例は少ない)記事は、落とした所がその神(天皇)に関する勢力の土地であることを表す。この説話にはうけいの面もある。

地名・地誌

大屋

『国司文書別記 郷名記抄』

大屋郷

大屋彦垂跡の地なり。故に大屋彦神社あり。

糸原・鴨・大屋村・山道村・笠・椋垣村・大杉村・中間・和機村・御井宮・清所村(省略)

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考

但馬の神社と歴史三部作

Follow me!


1件のコメント

コメントを残す

Avatar placeholder

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA