社 号 式内 日置神社
式内社 但馬国気多郡 日置神社
読み:古 ヒヲキ 現 ひおき
江戸時代は「槙尾大明神社」と称していた
所在地 兵庫県豊岡市日高町日置字高谷14
旧地名 但馬国気多郡日置郷
御祭神 天櫛耳命(アメノクシミミ) あるいは 天櫛玉命(アメノクシタマ)
『国司文書 但馬故事記』は、天櫛玉命(玉祖の祖)・天櫛耳命(日置部の祖)
例祭日 10月10日
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
気多郡[ケタ]:21座 大4 小17
式内社
『気多郡神社神名帳』記載三ニ社のひとつ
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
『国史文書・但馬故事記』第16代仁徳天皇の元年
本殿様式 流造瓦葺
稲荷神社・三柱神社・山ノ神社・八幡神社
境外摂社(祭神) 秋葉神社
国道482を出石方面へ進み、日高警部派出所手前を右折し日置橋を渡る約200m。日置橋を渡るとすぐ右手山手に神社が見えるのが境外社の秋葉神社。さらに進むとカーブに参道があった。
『国司文書 但馬故事記』
第16代仁徳天皇の元年4月に、物部多遅麻連公武 の子・物部多遅麻毘古 を、多遅麻国造 とし、(国)府を日置邑 に移しました。
日置首は、その祖・櫛玉命(くしだまのみこと)を日置丘に祀りました。(式内日置神社・豊岡市日高町日置)
創祀は不詳ではあるが、古くは槙尾神社、巻尾大明神、梶尾宮とも称されていた。創祀年代は不詳。
「兵庫県神社庁」
天櫛耳命(アメノクシミミノミコト)
「ミ」は神格を表す尊称として「ワタツミ」や「ヤマツミ」等と用いられ、「ミミ」はその「ミ」を重ねたものとされる。一説にともに原始的カバネ(姓)の一つで、巫(ミ)すなわち呪術師の名称として使われ、後に地域の宗教的ないしは政治的首長の名称としても使われたとされる。「トミ(刀美、登美、富、度美)」や「ツミ(津見、豆美、都美、積、祇)」あるいは「ミコ(巫子、御子、皇子、女王)」などは「ミ(巫)」の日常化した名称であるという。
丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)が記録されているが、いずれもその地方の首長と考えられている。
天櫛玉命(アメノクシタマ)
ニギハヤヒノミコトは、日本神話に登場する神。『日本書紀』では饒速日命、『古事記』では邇藝速日命と表記する。別名、櫛玉命(くしたまのみこと)。『先代旧事本紀』では、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)から、アメノホアカリと同一視する。
『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。
『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。
(ウィキペディア)
日置神社が置かれた場所は、向日置といって、日置区の円山川対岸、すぐ隣は楯縫から転じた多田谷であり楯縫古墳群がある。
御祭神を、天櫛耳命(アメノクシミミ) あるいは 天櫛玉命(アメノクシタマ)とすることから、朝廷が日置部を設置する前は、
一の鳥居 社号標
二の鳥居 手水舎・右手参道石段
拝殿 拝殿と本殿
左手境内社 稲荷社 右手境内社
参道すぐ鳥居右手に石積があるが何かわからない
摂外社 秋葉神社
日置橋東詰
日置(ひおき)
『国司文書 但馬故事記』
第16代仁徳天皇の元年4月、
物部多遅麻連公武の子・物部多遅麻毘古(たじまひこ)を、多遅麻国造とし、府を日置邑に遷す。
『国史文書別記 但馬郷名記抄(第一巻・気多郡郷名記抄』
日置郷は日置部在住の地なり。この故に名づく。日置神社この地にあり。玉作部は日置村にあり。
武光誠氏は、『古代出雲王国の謎: 邪馬台国以前に存在した“巨大宗教国家” 』で、
『出雲国風土記』の神門郡日置郷の条に、つぎのようにある。
「欽明天皇のときに、ここに日置の伴部(ともべ・役人)が送られてきてとどまり政務をとった。そのために日置の地名がおこった。」(中略)
六世紀半ば頃の欽明朝ごろ、朝廷の祭祀を整備する動きの中で、朝廷で暦を司どった祭官の領地として日置部が設定された。
出雲氏の出雲に意宇(イフ)郡、日置の隣も伊福(イフ)である。
『水谷慶一は、「日置部は大和国家の新たな支配地へ中央から送りこまれた尖兵だったのである。彼らは武力集団であると同時に、太陽を祀る祭祀集団であり、測量をすると共に、また、製鉄や土器製作の新しい方法を身につけた技術集団でもあったらしい。これは、現在、日置の地名のある地域にかならずといってよいほど、製鉄遺跡や須恵器の窯跡が発見されることによっても裏づけられる」と書いておられます。』・・・との指摘があります。