Contents
社 号 式内社 但馬国美含郡 美伊神社
読み:古 ミイ 現 みい
出雲原神社と謂い、また美伊神社と云う 『国司文書 但馬故事記』
所在地 兵庫県美方郡香美町香住区三川87-1
旧地名 但馬国美含郡美含郷
御祭神 主祭神 美伊毘売命(ミイビヒメノミコト)
配祀神 美伊毘彦命(ミイビヒコノミコト)
『国司文書 但馬神社系譜伝』
八千矛神・美伊比咩命・美伊県主 武饒穂命
例祭日 10月7日又は第1日曜日
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
美含郡(ミクミ):12座(並小)
近代社格制度 旧村社
創建 崇神天皇28年4月
本殿様式 切妻造、向拝一間、鉄板葺(明治期)
境内摂社(祭神) なし
三川山は幼い頃に、日高町から香美町まで徒歩でハイキング登山した思い出がある。豊岡市日高町稲葉から山頂マイクロウェーブまでは、作業用の自動車道で楽に登れるが、香美町側へは狭く険しい山道が、麓まで続く。神社も日高町からすぐ近いのだが、車では国道178号線で佐須まで行き、県道256号線を南下する。
由 緒
崇神天皇28年(BC70)、美伊縣主武額明命が美伊谷山に、その祖神を祀ったと云われる。元々は、麓の米地(上美伊谷)に鎮座していたが、雄略天皇17年、贄土師連吾筍命の命により、土師の氏人等が埴土を求めて本見塚(土生谷)へ移住するにより当社も遷座した。更に光仁天皇の宝亀元年(770)、現在の地にへ遷座されたと云う。
-「兵庫県神社庁」-
『国司文書 但馬神社系譜伝』
美含郷 美伊神社
美含郡美伊村鎮座
祭神 八千矛神・美伊比咩命・美伊県主 武饒穂命
人皇一代神武天皇の三年秋八月、
小田井県主 瞻杵磯饒穂命(いきしにぎほ)*の子、武饒穂命をもって、美伊県主(初代)となす。
(*瞻は胆の旧字)
武饒穂命は、大国主命の女(むすめ)美伊比咩命(亦名は白山比咩命)を娶り、武志麻命を生む。
美伊比咩命は、武饒穂命に従って越国に遷る。
人皇十代崇神天皇の二十八年夏四月、
美伊県主武額明命は、美伊毘古命に命じ、二神(武饒穂命・美伊姫命)を黄沼川(佐津川)の上に祀る。武額明命はのち大倭(大和)国に
人皇四十二代文武天皇の己亥(きのい)三年夏四月八日、優婆塞(ウバソク)役直 小角は、美川山(今の三川山)に入り、八千矛神を斎き祀る、ここにおいて三柱となる。
(経道)美川山縁起を按ずるに、美川山の蔵王権現、本地は不動明王、法跡は八千矛神なり。
大和国葛城山金峰大権現 伯耆国三徳山蔵王大権現は、人皇四十代天武天皇の朝、役行者の創立に係る。この美川山蔵王権現とともに、日本三所の霊場なり。
また美伊神社鎮座本記を按ずるに、御霊代として美伊県主 武饒穂命・美伊比咩命の御神鏡を、美伊丘に鎮座し、武饒穂命の八世孫 美伊毘古命は、これを美川山に斎き祀る。
美伊毘古命の子孫は美川村にあり、世々美上(みかみ)を称す。(いま三上というは、美伊神の転嫁なり)
また美都可(みつか)*は、美伊毘古命より武志麻命まで歴代の神墓なり。烟戸を置き、これを守る。美都可氏はその後なり。
*美都可 御塚の意味であろう
三川山源流とする佐津川の上流三川集落へ
社頭 社号標
境内 本殿覆屋
本殿覆屋
『国司文書別記 美含郡郷名記抄』
美含郷
美含郡は旧美伊県なり。美伊県主根拠の地。今は美伊谷にあり、美伊県主 建饒穂命(*建は武の誤記)はじめて県主となり、美伊谷に居る。のち美伊神山の麓に遷る。故に八千矛神・建饒穂命・美伊比売命を美伊神山に鎮座す。
のち美伊県主 武額明命 安来浦に遷り、美伊県という。崇神天皇の十五年九月二十八日、大国主大神・玉櫛入彦大神を安来浦の御光山に齋き祀る。
(註 美含は水汲みの義なり。井水浅くして汲むべし。故(か)れ水汲みという。御井神社坐す所なり。御井神は、大巳貴命 稲葉八上姫命に通い、生みます所、木俣神と申しまつり、加賀国白山に鎮まります。故(か)れまた白山比咩神と称えまつる。)
社 号 三川権現社
三川山蔵王権現と称していた
読み:古 みかわさんざおうごんげん 現 みかわごんげん
所在地 兵庫県美方郡香美町香住区三川
旧地名 但馬国美含郡美含郷
御祭神
蔵王権現(ざおうごんげん)は、日本仏教における信仰対象の1つ。インドに起源を持たない日本独自の仏で、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意。
例祭日
三川権現春の大祭
創建
本殿様式
式内美伊神社のさらに上流に位置する。本来は神仏分離からみれば神社ではないが、権現が神仏とされる。
三川山の麓にある三川権現は、修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)が天武3年(674)に蔵王権現を勧請して開いたと伝えられています。大和の大峯山、伯耆の三徳山と並んで日本三大権現に数えられ、歴代の国主、諸公をはじめ人々の信仰を集めました。しかし天文7年(1538)、雷により奥の院を焼き、伽藍を焼失します。その後再建されますが、天保3年(1832)に土石流で全ての建物が埋没してしまいました。当時の出石藩主仙石氏らが再興を計り、高野山大僧正と信徒らにより蔵王堂が再建され現在の三川権現社があるとされています。
権現社の隣には「ぽっくり尊」という仏様が祭られており、下着をここで加持してもらい身に着ければ、老いてから下のものの世話にならずに大往生できるといいます。苦しみを身代わりに背負ってくれる代苦仏です。
さらに、ここには全国観音霊場百八十八ヶ所のお砂踏み場があり、ここに来ればその全てを巡ることができるようになっています。
-香美町-
社号標・鐘楼
本堂
境内社
三川権現春の大祭
その三川権現社では、毎年5月3日に春を呼ぶ大祭「三川権現まつり」が開催され、全国各地から修験者や山伏が集まります。知恵の炎で煩悩を焼き払うという柴灯大護摩法要(さいとうおおごまほうよう)はこのまつりの呼び物の一つです。
修験者が勇ましくホラ貝を吹き鳴らしながら入場し、境内の四方に結界の矢を放った後、中央の1m以上にも積まれた護摩に点火し、そこから立ち昇る炎と煙は圧巻です。この大護摩を一目見ようと、町内外から多くの参拝者が集まり、家内安全・祈願成就などの願いを込めて煙を手で呼び寄せます。
出雲原神社
同郡美含郷美川山鎮座
祭神 健饒穂命・美伊比売命
『国司文書 但馬故事記』
夏6月 出雲原直饒津麿は美川山を開き、その祖美伊県主健饒穂命・美伊毘
売命を祀り、これを出雲原神社と謂い、また美伊神社と云う。
今の美伊神社は、兵庫県神社庁によれば、「崇神天皇28年(BC70)、美伊縣主武額明命が美伊谷山に、その祖神を祀ったと云われる。
元々は、麓の米地(上美伊谷)に鎮座していたが、雄略天皇17年、贄土師連吾筍命の命により、土師の氏人等が埴土を求めて本見塚(土生谷)へ移住するにより当社も遷座した。更に光仁天皇の宝亀元年(770)、現在の地にへ遷座されたと云う。」
『国司文書 但馬郷名記抄』には、美川山鎮座とあるので、元々は山頂付近に祀られていたとすれば、
当社の位置がより近いので、参考までに記した。
三川山
氷ノ山・後山・那岐山国定公園の一峰、香住の屋根「三川山」は標高887.8mでシャクナゲやヒメコマツが群生し、ブナなどの原生林があります。また、近くを流れる佐津川周辺には多くの鳥や魚、昆虫が生息し、貴重な自然環境が残っており、ハイキングコースとしても人気があります。
ー香美町ー
また南側は豊岡市日高町稲葉で、山頂に但馬の核となるテレビ中継局がある。