社 号 式内社 但馬国七美郡 高坂神社
読み:たかさか
江戸時代は「高坂大明神」
所在地 兵庫県美方郡香美町村岡区高坂165-1
旧地名 但馬国七美郡兎塚郷
御祭神 高皇産靈尊(タカミムスビノカミ)
『国司文書 但馬神社系譜伝』 彦狭島命(宇自可臣の祖)
彦狭知命か?
『特選神名牒』 素盞鳴命
例祭日 】10月第3日曜日
古代社格制度
『延喜式神名帳』式内社
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
七美郡(しつみ):10座(並小)
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳だが、大同元年(806)にはすでに再建
本殿様式 一間社流造、板葺 昭和五十九年(1984)(町資料)
稲荷神社・下頭神社
国道9号線福岡交差点からハチ北方面へ。福岡の先にできた新しい交差点がわかりやすい。そのまま行くと、兎和野高原、木の殿堂、高山植物園へ行ってしまった。手前の森脇まで戻って、和池・池ケ平の集落を越えて、高坂集落に着くと標高は約550m。兎和野高原と同程度の標高だ。頂上付近に小さなトンネルがあり、高坂集落が右手に広がる。神社らしき森がすぐわかるので集落内の細い道は、どこからでも行けそうだがなるべく広い道から入る。神社の横に集落の駐車場があったのでお借りした。まさに下界から離れた別天地の高天原の様相。帰りは集落から旧道を降りたらそのトンネルの所に出た。谷に向かって鎮座。鳥居、石燈籠、社号標など新しい。
高坂神社は兎束郷唯一の式内社で、高所に鎮座する。
由 緒
創立年月不詳延喜式内社にして大同元年(806)の再建と伝え、天文9年(1540)本殿火災の為烏有に帰し、正徳6年(1716)社殿を再建せり。
明治3年(1870)正月神祇伯王より霊璽を勧請せられ同6年(1873)10月村社に列せらる
-「兵庫県神社庁」-
『国司文書 但馬神社系譜伝』
人皇三十一代敏達天皇の三年秋七月、七美郡司・宇自可(ウジカ)臣狭立これ(彦狭島命)を祀る。
彦狭島命は、孝霊天皇の皇子なり。
高皇産霊神を祭神とする式内社は但馬で唯一のようだ。ちなみにうちの区の舂米神社(臼は旧)も若桜氷ノ山の同名社の分祀社なので、御祭神 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、
高御産巣日神(たかみむすひのかみ)で、高皇産霊神を祭神とする。
高皇産霊尊(たかむすびのみこと)は、『古事記』では高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、『日本書紀』では高皇産霊神(タカミムスビノカミ)と書かれる。葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(タカギノカミ)という名で登場する。神社の祭神としては高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)などとも書かれる。別名の通り、本来は高木の神格化されたものを指したと考えられている。「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神である。要するに元々は木の神で自然神を偶像化した神。
『古事記』によれば、天地開闢の時、最初に天御中主神が現れ、その次に神皇産霊神(かみむすび)と共に高天原に出現したとされるのが高皇産霊神という神である。天御中主神・神皇産霊神・高皇産霊神は、共に造化の三神とされ、いずれも性別のない神、かつ、人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされている。この造化三神のうち、神皇産霊神・高皇産霊神は、その活動が皇室・朝廷に直接的に大いに関係していると考えられたため、神祇官八神として八神殿で祀られた。
高坂集落 鳥居・社号標
拝殿 境内社三社
本殿覆屋
兎束(うづか)郷
香美町村岡区福岡(旧七美郡兎束)は、養父市(養父分八木郷)と村岡(七美郷)の間の山間で国道9号線を難所の八井谷ループ橋と但馬トンネルを越えた地区で美方郡の玄関口にあたる。ハチ北スキー場の入口で、元鳥取城主山名豊国が関ヶ原の恩賞にここを領地とし拠点を設けたことで、因幡山名氏の再興を果たし兎束を福岡と改め栄えた。のちに山名氏は陣屋を七美郷に移し、七美を村岡と改め、但馬村岡藩、村岡県として江戸から明治まで存続した。