社 号 威徳神社
読 み:いとく
所在地 兵庫県豊岡市日高町栃本301
旧地名 但馬国気多郡太多郷
御祭神
主祭神 倭健命(ヤマトタケルノミコト)
配祀神 倉稲魂命(ウガノミタマノミコト) 須佐之男命 (スサノオノミコト)
例祭日 10月1日
式外社
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式
国道482号線清滝小学校前を南へ入り、稲葉川の橋を渡り、南へ450m。
由 緒
創立年月不詳文政4年(1821)、安政2年(1855)両度本殿を再建し、明治6年(1873)10月村社に列せらる。同18年(1885)遷宮を奉仕し同42年(1909)稲荷神社を合祀し、昭和7年(1932)本殿覆の屋根替えを行えり。
-「兵庫県神社庁」-
『国司文書・但馬故事記』
人皇十五代神功皇后立朝の四五年、新羅朝貢せず。将軍荒田別命・鹿我別命は往きてこれを破る。(中略)兵を移して西に回り、以って百済を賜う。
百済王は「以って永久に臣を称するの信なり」と。*1人皇十六代仁徳天皇の元年4月、
物部多遅麻連公武の子・物部多遅麻毘古(たじまひこ)を、多遅麻国造とし、府を日置邑に移す。
物部多遅麻毘古は、物部多遅麻連公武を射楯丘に葬る。(式内売布神社)五月、将軍荒田別命は、子の多奇波世君(たけはせのきみ)の弟・田道公(たみちのきみ)を山口邑に置き、田道公の子・多田毘古を多他邑に置く。
故に、多他毘古を名づけて、多他別の田道と云う。多他の名は、この荒田別命が夜夫県主(やぶあがたぬし・のちの養父郡)(三代)・竹野彦命の娘・宇日比売命(ういひめのみこと)を娶り、多奇波世君(たけはせのきみ・他に竹葉瀬公と書く)・田道公(他に田路と書く)を生んだことに基づく。
(中略)
人皇31代(異説あり)敏達天皇の十三年春三月、止美連吉雄(とべのむらじおしお)を以って、多遅麻国造と為す。(止美はいまの豊岡市日高町十戸(じゅうご))吉雄は、その祖・大荒田別命の子・多奇波世君(たけはせのきみ)の弟・田道公を多他村に祀り、止美神社と称え祀る(名神大 戸神社)。また多他毘古命を多他丘に祀り、太多神社と称え祀る。
田道公の子孫は田道村に在り、田道公を斎き祀る。これ田道に坐す一宮神社これなり。
人皇三十五代舒明天皇三年アキ八月、垂仁天皇の皇子、五十日帯彦命の末裔山公峯男を以って、多遅麻国造と為す。
山部を管どる山公峯男は、その祖五十日帯彦命を太多邑(いまの太田)に祀り、山宮と称え祀る。(名神大山神社)
威徳神社の威徳は何か?
*1威徳王
威徳王(いとくおう、526年? – 598年12月)は、百済の第27代の王(在位:554年 – 598年)。先代の聖王の長子。
554年7月に聖王は新羅を討とうとして、家臣が諌めるのも聞かず兵を起こし、大伽耶(慶尚北道高霊郡)と倭国と共に新羅と戦ったが、緒戦で奇襲を受けて聖王が戦死するという結果に終わった。このとき、威徳王も新羅軍に囲まれて死地に追い込まれたところを、倭の軍に助けられ逃げ延びたとされる。新羅は余勢を駆って百済を攻め滅ぼそうとしたが、背後に憂いがあるため取りやめになった。同年10月高句麗は熊川城に侵攻してきたがこれを撃退した。『三国史記』百済本紀では聖王の死後直ちに即位して王として高句麗戦にあたったとするが、『日本書紀』では欽明天皇16年(555年)2月条に威徳王は弟の恵(後の恵王)を送ってきて聖王の死を伝えたこと、同年8月条には王位につかずに僧となろうとしたこと、欽明天皇18年(557年)3月に威徳王が即位したと記している。(ウィキペディア)
『国司文書・但馬故事記』の百済王の記述と符合している。
田道に坐す一宮神社は、國主神社の由来にある明治42年に国主神社に合祀された一の宮であろうか。栃本から太田までの土地は神鍋火山灰で田に適さず、田道はタミチ・タジとも読めるので田道は田ノ口から栃本へ抜ける平坦地を耕作した稲田の道とすれば、南は田ノ口、北の麓は田道の本=「たじもと」と云い、とちもとと転じ「栃本」と書くようになったのではないかとも思える。
鳥居 割拝殿
手水鉢 石灯籠
狛犬
社殿 本殿
栃本(とちもと)
はっきりとしたことは不明だが、筆者はこう考えている。
『国司文書別記 但馬郷名記抄』(975・平安時代)
太多郷
止美(トベ)・己呂訶伎(コロガキ)・漆垣・山守部・石作部・太多村・壬生部・稲葉・巨智部(コチ)・秦部・的部・錦部・栗栖・太刀宮・田口・羽知
太田文(1285・鎌倉時代)
太多郷
十戸・此垣・漆垣・山宮・石井・太多・栃本・東河内(ヒガシコウチ)・水口(ミノクチ)・稲葉(イナンバ)・萬却(マンゴウ)・山田(ヤマタ)・萬場(マンバ)・名色(ナシキ)・栗栖野(クリスノ)・庄境・久田谷・田口(タノクチ)・羽尻(※漆垣は現存せず)
平安時代までは栃本はないが、止美は十戸、己呂訶伎は此垣(今の頃垣)、山守部は山宮、石作部は石井、太多村は太田で間違いなかろう。
壬生部・稲葉・巨智部(コチベ)・秦部・的部・錦部・栗栖の順で考察するに、壬生部(みぶべ)は水口、的部は万場、錦部は名色また西気のこともさすのだろうか。栗栖は栗栖野で間違いなかろう。
地番では、清滝小のある国道482号線と太田へ登る分岐辺りまでは山宮。山口邑は今は同じ山宮だが、山神社のある山宮と国道沿いの山宮は離れており、かつては、『国司文書・但馬故事記』にある山口邑と云われていたのだろうか。多他村に止美神社(今の名神大 戸神社)とあるから、石井までが多他村で、栃本は稲葉川以南とカーブの続く寄の木坂下から但馬ドーム東南まで。
田道は、一に田路と書す。「タミチ」が「トウジ」となり、田道の元の邑を田路下、或いは田路元から「トジモト」と訛り、栃本と字を転訛したと思うのである。田へ行く道が田ノ口が旧太多郷であり、清滝地区の名の由来と思われる清瀧神社があることから、田道はその往来を指すのだろう。ひょっとすると寄木坂にまっすぐ残っている旧道を田道と云ったかも知れない。
「兵庫県神社庁」