社 号 美気津神社
当初は歌中(長)神社
古称 五社大明神
所在地 兵庫県美方郡新温泉町歌長(高山)2233
旧地名 但馬国二方郡端山郷(のち温泉郷)
御祭神 主祭神
配祀神
大食津姫命 『国司文書・但馬故事記』
御神紋
例祭日 10月10日
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳(『国司文書 但馬故事記』脱稿は、天延3年(975))なので、それまでには建立されていたものと推察)
本殿様式
兵庫県神社庁には歌長区内となっているが、地元の人に聞くと
弘化10年(1853?)の創立と伝え、初め歌長神社の氏子なりしも後に分離して当社を氏神と仰ぎたり。江戸時代五社大明神と称せしも、明治初年美気津神社と改め同6年(1873)3月村社に列せらる。
「兵庫県神社庁」
新温泉町高山の美気津神社は、弘仁10年(819年)の創建といわれ、当初は歌長神社の分社として祀っていたと伝えられている。
「新温泉町」
素盞鳴尊は、大年命・蒼稲魂命に勅して、布多県国を開かしめ給う。
大年命は、蒼稲魂命とともに布多県国に至り、御子を督励して、田畑を開き、その地を称して大田庭という。いま大庭という。(中略)
瑞山富命は、蒼稲魂命の娘、大食津姫命を娶り、若山咋命・若年命らを生む。(中略)
瑞山富命宇多中宮に坐し、
大食津姫命は御食津宮に坐し、
若年命は波多茅原宮に坐し、
若山咋命は大前宮に坐し、
大山咋命は日枝宮に坐す。
みな開国の祖神なり。人皇1代神武天皇5年8月 若山咋命の子、穂須田大彦命を以て、布多県国造と為す。穂須田大彦命は、久々年命の娘、萌生比売命を娶り、刀岐波彦命を生み、宇多中宮に在りて国を治む。(宇多中は歌長の古名)
(中略)
人皇16代応神天皇6年春3月 二方
開咋 彦命の子、宇多中大中彦命(亦の名は須賀大中彦命)を以て、二方国造と為す。宇多中大中彦命は、前原大珍彦命の娘、多久津毘売命を娶り、陽口開別 命を生む。
(中略)
人皇42代文武天皇大宝2年夏4月塩屋連環 を以て主政に任じ、歌中首葭江 を以て主帳に任ず。
塩屋連環はその祖葛城襲津彦 命を塩屋丘に祀り、塩屋神社と申しまつる(塩屋は、今の塩山ではないか。吹上神社)
歌中首葭江はその祖端山富 命を歌中丘に祀り、歌中神社と称えまつる。人皇62代村上天皇天暦2年春正月 正八位上岸田臣田公の子、公助を以て、二方大領に任じ、今木連幸人・内臣道麿等に神社神名帳を作らせ、郷社に納めしむ。
『国司文書・但馬故事記』
この『国司文書 但馬故事記』の神社神名帳の式外社の中で、歌中神社(本宮) 祭神 端山富命と、歌中神社のみ本宮と但し書きがあることから、歌中神社は本宮・仮称別宮が複数存在したのだと推察でき、本宮以外の仮の「別宮」があったからであろう。神社神名帳に御(美)食津神社は記載されていないが、当社は歌中(長)神社の分社(別宮)で、端山富命の妃、大食津姫命を祀る御(美)食津神社と改めたと思われる。『国司文書 但馬故事記』脱稿は天延3年(975))なので、それまでには建立されていたものと推察する。
大食津姫命(おおみけつひめ・おおげつひめ) 御食とは「みけ」と読み、神への供物のことで、御饌とも書く。津は接続詞の「の」に当たり、「みけのひめ」は、神への食事・供物をする姫。行政区は高山だが、地番は歌長の一部で歌中(長)神社の御食を供する御贄の田畑であったと考えれば両社の関係がわかる。伊勢神宮の内宮(天照大御神)と外宮(豊受大御神)の関係と同じである。
高山へ向かう道
高山から国道9号線方面を眺む
道路沿いの大地主神 道路沿いにある登り口
御神燈 観音堂らしき建物が見える
参道に祠 祭神不明
参道石段 境内
しゃれた手水鉢
観音堂 木造毘沙門天立像は現在別の場所で保管されている
社殿 社殿
本殿覆屋
狛犬
遥拝所の跡だろうか
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