村社 萬場神社(豊岡市日高町河畑)

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社号 萬場神社

旧社名:的場(イクハバ)神社
読み: 古 イクハバ 現 まんば
所在地 兵庫県豊岡市日高町羽尻(河畑)549
旧地名 但馬国気多郡三方郷
御祭神 速須佐之男命(ハヤスサノオノミコト)
例祭日 10月9日

社格等
近代社格制度 旧村社
『国司文書 但馬故事記』に、的臣羽知の祖・葛城城襲津彦命例祭日 10月9日

社格等

『気多郡神社神名帳』記載三ニ社のひとつ
創建
本殿様式

境内摂社(祭神)

一口メモ

国道482号線を西に進む。
伊府(交差点) を左折して、県道259号線 に5.2 km入る。
湯の原温泉オートキャンプ場手前北。

歴史・由緒等

伝へいふ持統天皇3年(689)7月諸国の国司に令して的場を築かしめ給ひしかば但馬国司廣務参榛原公鹿は気多郡馬方原に祀り的場神社と称せり是今の万場神社の起因なり

然るに的場を万と称せしは語音の変化したるか又此神は元西気村万場村より此地に祀られたるなりとも伝ふ故に生じたるか後ち速須佐男命を祭神となし安政5年(1858)本殿を再興し明治6年(1873)10月村社に列し同33年(1900)又社殿を再建す。

-「兵庫県神社庁」-

但馬国最初の陸軍・気多軍団

『国司文書 但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記・下)

人皇35代舒明(じょめい)天皇3年秋8月、垂仁天皇の皇子・五十日帯彦命の裔・山公峯男をもって、多遅麻国造と為す。
山部を管どる山公峯男は、その祖・五十日帯彦命を太多邑に祀り、山宮と称え祀る(式内山神社)。

人皇37代孝徳天皇大化三年、但馬国気多郡高田邑(久斗)に於いて、兵庫(やぐら)[*1]を造り、郡国の甲冑・弓矢を収集し、以って軍団を置き、出石・気多・城崎・美含の四郡を管(つかさど)る。
宇麻志摩遅命(うましまぢのみこと)六世孫、伊香色男命(いかしこお…)の裔、矢集連高負を以って大穀(だいき)と為し、
大売布命の裔、楯石連大祢布(売布神社:日高町国分寺)を以って少穀[*2]と為す。
景行天皇の皇子、稲瀬入彦命四世の孫、阿良都命の裔、佐伯直・猪熊および波佐麻を校尉と為し、
道臣命の裔、大伴宿祢神矢および的羽の武矢・勇矢を以って旅帥と為し、
伊多首(井田神社:日高町鶴岡)の裔・貴志麻侶、葦田首(葦田神社:豊岡市中郷)の裔・千足、石作部の裔(須谷神社:日高町藤井)・石井、日置部(日置神社:日高町日置)の裔・多麻雄、盾縫首(盾縫神社:日高町多田谷)の裔・鉾多知、美努連(三野神社:日高町野々庄)の裔・賀津男等を以って、隊正と為す。

凡そ軍行においては、即ち弓一張、征箭(ソヤ)50隻、太刀1口、一火、駄馬6頭、
一隊の駄馬50頭、一旅の駄馬80頭、一軍団の駄馬600頭
5人を伍と為し、10人を火と為し、50人を隊と為し、100人を旅と為し、千人を一軍団と為す。

同年、朝来郡朝来邑に兵庫を造り、軍団を置き、朝来・夜夫・七美の三郡を管する。

人皇40代天武天皇四年二月乙亥朔(きのといさく)、
但馬国等の十二国に勅して曰わく、
「所部(クニノウチ)の百姓(オホムタカラ)の能く歌う男女およびヒキ儒(ト)・伎人(ワザト)を撰みて貢上(タテマツ)れ」と。

(中略)

十二年夏四月 詔して、文武の官に教え、軍事を習い努めしめ、兵馬の器械を具え、馬有る者を以て歩卒と為し、以て時に検閲す。

馬工(ウマタクミ)連刀伎雄を以て、但馬国の兵官(ツワモノノツカサ)と為し、操馬の法を教えしむ。その地を名づけて、馬方原(三方郷は馬方郷の転訛)と云う。

十三年三月、馬方連刀伎雄は、その祖、平群木菟宿禰命(へぐりのつくのすくね)*を馬方原に祀り、馬工(ウマタクミ)神社と称えまつる。

人皇41代持統天皇巳丑(みうし)3年秋7月、左右の京職および諸の国司に令して的場を築かしむ。
国司務・広参、榛原公鹿我麿は、気多郡馬方原に的場(イクハバ)を設け、的臣羽知をもって令と為す。的臣羽知はその祖・葛城城襲津彦命を馬方原に祀り、的場神社と称す。

『国司文書 但馬神社系譜伝』に、
人皇41代持統天皇巳丑3年閏8月、忍海部(おしぬみべ)の広足を以って、但馬の大穀と為し、生民四分の一を点呼し、武事を講習せしむ。
広足は陣法に詳しく、兼ねて経典に通じ、神祀を崇敬し、礼典を始める。
即ち、兵主神を久斗村の兵庫のかたわらに祀り(式内久刀寸兵主神社)、
高負神を高田丘(矢集のち夏栗)に祀り(式内高負神社)、
大売布命を射楯丘(石立、のち国分寺)に祀り(式内売布神社)、
軍団
の守護神を為し、軍団守護の三神と称す。

*1兵庫(やぐら)

つわものぐらとも訓む。
いわゆる大化の改新による諸制度一新に基づき、多遅麻国気多郡にも大化3年兵庫(やぐら)を設け、軍団が置かれた。改新の大勅は大化2年春正月であるから、詔勅より遅れることわずか1年。
これは日本海の但馬が新羅の防衛にとって重要だったと思われる。

*2軍団

軍団の指揮に当たるのは軍毅(士官)であり、大毅(だいき)、小毅(しょうき)、主帳(さかん)がおかれ、その下に校尉(こうい)・旅帥(ろそち)・隊正(たいしょう)らが兵士を統率した。
千人の軍団(大団)は、大毅1名と少毅2名が率いた。六百人以上の軍団(中団)は、大毅1名と少毅1名が率いた。五百人以下の軍団(小団)は、毅1名が率いた。大毅1名と少毅1名なので、気多団の場合は、600から1000人までの中団規模でなないだろうか。

境内・社叢

  
鳥居扁額            手水鉢

  
本殿覆屋

地名・地誌

三方

『国司文書 但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記・下)
人皇天武天皇4年2月乙亥朔(きのといさく)、但馬国等の十二国に勅して曰(のたまわ)く、
「所部(クニノウチ)の百姓(オホムタカラ)の能く歌う男女およびヒキ儒(ト)・伎人(ワザト)を撰みて貢上(タテマツ)れ」と。

(中略)

十二年夏四月 詔して、文武の官に教え、軍事を習い努めしめ、兵馬の器械を具え、馬有る者を以て歩卒と為し、以て時に検閲す。

馬工(ウマタクミ)連刀伎雄を以て、但馬国の兵官(ツワモノノツカサ)と為し、操馬の法を教えしむ。その地を名づけて、馬方原(三方郷は馬方郷の転訛)と云う。

羽尻
古くは羽知。
『国司文書 但馬郷名記抄』
的臣羽知(イクオミノハジ)この地にあり。この故に名づく。葛城襲津彦命を祀り、的場神社という。
羽知が羽尻に転訛したのだろう。

太多郷

『国司文書 但馬郷名記抄』吾郷清彦編
平安後期 天延三年(975)に、

羽知・柴垣・麁香(アラカ)・亥猪民部・廣井・志貴・栗山・馬工(ウマタクミ)村・守山、智々見・餐所

羽知は今の羽尻、柴垣は芝、麁香は今の荒川、亥猪民部は猪子垣、馬工村は観音寺。守山は森山、智々見は知見、餐所は三所(今は無し)。志貴は不明です。

『校補 但馬考』

(但馬太田文曰く 鎌倉時代)
三方郷 村数十

芝・安良川・猪子垣・廣井・殿村・栗山・観音寺・森山・知見・三所

阿瀬金銀山

山名四天王の筆頭、垣屋氏は、東国武士である土屋氏の一族といい、南北朝時代に但馬守護になった山名氏に従って上野国から西遷してきた。明徳の乱の活躍で山名氏の信頼を得た垣屋氏は、但馬守護代に任じられ、但馬国府南方に宵田城、三方方面に楽々前城、三方富士と呼ばれる鶴ヶ峰にそれぞれ城を築き、さらに竹野に轟城を築いて一族を配した。

総領家は楽々前城に拠り、宵田・轟の一族を統括して、山名氏家中に重きをなした。戦国時代になると衰退した山名氏に代わって、垣屋氏、太田垣氏、八木氏、田結庄氏が自立、割拠して四家が但馬を支配する勢いを示した。やがて、但馬に毛利氏、織田氏の影響が及んでくると、四家はそれぞれの思惑で対立するようになり、さらに垣屋氏も一族が分裂する事態となった。垣屋氏総領家は豊臣大名として生き残ったが、関が原の合戦に西軍に味方したため没落してしまった。気多郡阿瀬金山を支配下におき、菩提寺布金山隆国寺を建立、但馬の有力国衆へと成長した。

永禄5年(1562年)、阿瀬谷河畑のくわさごで発見された、と伝えられている。時代によって、阿瀬銀山、河畑銀山あるいは阿瀬河畑銀山とも呼ばれたようだ。
阿瀬には、阿瀬金山(阿瀬之奥金山)もあったので、併せて阿瀬金銀山とも称された。
天正5年(1577年)、豊臣秀吉の但馬征伐後、別所豊後守の給地になったが、天正10年(1682年)からは生野銀山の支山となり、銀山奉行・伊藤石見守が支配した。それ以来、「木戸岩」、「八十枚山」、「与太郎」など多くの間歩(坑道)が次々と発見され隆盛を誇った。
阿瀬金銀山は広い範囲にわたり、その繁栄をものがたるように「阿瀬千軒」、「金山千
軒」、などの言い伝えが今も残されている。
江戸時代、元文3年(1738年)ごろ、城崎郡にあった金山として「阿瀬奥金山」の名が
ある。
安政6年(1855年)8月、八々山人赤木勝之が著述した「但馬国新図」には、但馬における名産として、『阿瀬の銀』は、生野の銀と並び称されている。

地 図

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交通アクセス・周辺情報

阿瀬渓谷・湯の原温泉オートキャンプ場

参 考

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