村社 馬止神社(豊岡市日高町観音寺)

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社号 馬止神社
読み:古 ウマタクミ、現 うまどめ
古くは馬工神社
所在地 兵庫県豊岡市日高町観音寺700
旧地名 但馬国気多郷三方郷馬工村(江戸 観音寺村)
御祭神主祭神 名草彦命(ナクサヒコノミコト) 配祀神 市杵島命(イチキシマノミコト) 速須佐之男命(ハヤスサノオノミコト) 奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)
『国司文書 但馬故事記』 馬工連刀伎雄の其の祖・平群木免宿禰命(へぐりのつくのすくね)*
例祭日 10月9日

社格等

『気多郡神社神名帳』記載三ニ社のひとつ
近代社格制度 旧村社
創建     不詳
本殿様式   三間社?造りは不明

境内摂社(祭神)

一口メモ

日高町観音寺集落の観音寺山門跡近くの北方の鶴ヶ峰(三方富士)南麓にある。

歴史・由緒等

伝へ云ふ。天武天皇12年(683)夏4月詔ありて、文武百官を教へ勤めて諸国に軍事を習はしむ。 此時馬工連刀伎雄を以て、但馬国の兵官となし操馬の法を教へしむ。 其の地を名づけて馬方原と云ふ是れ即ち今の三方村一帯の地名なり。 天武天皇13年(684)3月、馬工連刀伎雄其組平群木免宿禰命を馬方に祀りて、 馬工神社と称す。是今の馬止神社なり。 然るに馬工を馬止と称せしは工と止との誤なる事記録によりて明なり。 中古祭神を改め、明治6年(1873)10月村社に列し、
同19年(1886)社殿を再建せり。 同20年(1887)社殿を改築せり。

-「兵庫県神社庁」-

『国司文書 但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記・下)

人皇四十代天武天皇四年二月乙亥朔(きのといさく)、 但馬国等の十二国に勅して曰わく、 「所部(クニノウチ)の百姓(オホムタカラ)の能く歌う男女およびヒキ儒(ト)・伎人(ワザト)を撰みて貢上(タテマツ)れ」と。 (中略)
十二年夏四月 詔して、文武の官に教え、軍事を習い努めしめ、兵馬の器械を具え、馬有る者を以て歩卒と為し、以て時に検閲す。 馬工(ウマタクミ)連刀伎雄を以て、但馬国の兵官(ツワモノノツカサ)と為し、操馬の法を教えしむ。その地を名づけて、馬方原(三方郷は馬方郷の転訛)と云う。 十三年三月、馬方連刀伎雄は、その祖、平群木菟宿禰命(へぐりのつくのすくね)*を馬方原に祀り、馬工(ウマタクミ)神社と称えまつる。

*平群木菟宿禰命

『日本書紀』の所伝によると、応神朝から軍事氏族としての活躍が見え、履中朝に平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)が国政に携わるようになった。葛城氏没落後の雄略朝以降、木菟の子の真鳥(まとり)が「大臣」を歴任して一族の興隆を極めた。しかし、仁賢天皇の崩後、真鳥大臣は日本国王になろうと専横を極めて、国政をほしいままにしたため、天皇家をも凌ぐその勢力を怖れられ、稚鷦鷯太子(後の武烈天皇)の命を受けた大伴金村により、真鳥とその子の鮪(しび)は誅殺されたという(498年)。

これ以後、平群氏の氏人はしばらく『書紀』から姿を消すが、用明天皇2年(587年)の物部討伐将軍として神手(かみて)の名が見え、この頃までに大夫選任氏族としての地位を得ていた。
同13年(684年)10月の八色の姓施行に伴い、改めて朝臣姓を賜る。奈良時代には広成などの官人を輩出したが、その後は没落した。

但馬国最初の陸軍・気多軍団

『国司文書 但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記・下)

人皇35代舒明(じょめい)天皇3年秋8月、垂仁天皇の皇子・五十日帯彦命の裔・山公峯男をもって、多遅麻国造と為す。 山部を管どる山公峯男は、その祖・五十日帯彦命を太多邑に祀り、山宮と称え祀る(式内山神社)。

人皇37代孝徳天皇大化三年、但馬国気多郡高田邑(久斗)に於いて、兵庫(やぐら)1を造り、郡国の甲冑・弓矢を収集し、以って軍団を置き、出石・気多・城崎・美含の四郡を管(つかさど)る。
宇麻志摩遅命(うましまぢのみこと)六世孫、伊香色男命(いかしこお…)の裔、矢集連高負を以って大穀(だいき)
2と為し、大売布命の裔、楯石連大祢布(売布神社:日高町国分寺)を以って少穀*2と為す。

景行天皇の皇子、稲瀬入彦命四世の孫、阿良都命の裔、佐伯直・猪熊および波佐麻を校尉2と為し、 道臣命の裔、大伴宿祢神矢および的羽の武矢・勇矢を以って旅帥2と為し、
伊多首(井田神社:日高町鶴岡)の裔・貴志麻侶、葦田首(葦田神社:豊岡市中郷)の裔・千足、
石作部の裔(須谷神社:日高町藤井)・石井、
日置部(日置神社:日高町日置)の裔・多麻雄、
盾縫首(盾縫神社:日高町多田谷)の裔・鉾多知、
美努連(三野神社:日高町野々庄)の裔・賀津男等
を以って、隊正*2と為す。

凡そ軍行においては、
即ち弓一張、征箭(ソヤ)50隻、太刀1口、一火、駄馬6頭、 一隊の駄馬50頭、一旅の駄馬80頭、一軍団の駄馬600頭 5人を伍と為し、10人を火と為し、50人を隊と為し、100人を旅と為し、千人を一軍団と為す。

同年、朝来郡朝来邑に兵庫を造り、軍団を置き、朝来・夜夫・七美の三郡を管する。

人皇40代天武天皇四年二月乙亥朔(きのといさく)、 但馬国等の十二国に勅して曰わく、 「所部(クニノウチ)の百姓(オホムタカラ)の能く歌う男女およびヒキ儒(ト)・伎人(ワザト)を撰みて貢上(タテマツ)れ」と。 (中略)

十二年夏四月 詔して、文武の官に教え、軍事を習い努めしめ、兵馬の器械を具え、馬有る者を以て歩卒と為し、以て時に検閲す。 馬工(ウマタクミ)連刀伎雄を以て、但馬国の兵官(ツワモノノツカサ)と為し、操馬の法を教えしむ。その地を名づけて、馬方原(三方郷は馬方郷の転訛)と云う。

十三年三月、馬方連刀伎雄は、その祖、平群木菟宿禰命(へぐりのつくのすくね)*を馬方原に祀り、馬工(ウマタクミ)神社と称えまつる。

人皇41代持統天皇巳丑(みうし)3年秋7月、左右の京職および諸の国司に令して的場を築かしむ。 国司務・広参、榛原公鹿我麿は、気多郡馬方原に的場(イクハバ)を設け、的臣羽知をもって令と為す。的臣羽知はその祖・葛城城襲津彦命を馬方原に祀り、的場神社と称す。

『国司文書 但馬神社系譜伝』に、
人皇41代持統天皇巳丑3年閏8月、忍海部(おしぬみべ)の広足を以って、但馬の大穀と為し、生民四分の一を点呼し、武事を講習せしむ。 広足は陣法に詳しく、兼ねて経典に通じ、神祀を崇敬し、礼典を始める。
即ち、兵主神を久斗村の兵庫のかたわらに祀り(式内久刀寸兵主神社)、
高負神を高田丘(矢集のち夏栗)に祀り(式内高負神社)、
大売布命を射楯丘(石立、のち国分寺)に祀り(式内売布神社)、
軍団
の守護神を為し、軍団守護の三神と称す。

*1兵庫(やぐら) つわものぐらとも訓む。
いわゆる大化の改新による諸制度一新に基づき、多遅麻国気多郡にも大化3年兵庫(やぐら)を設け、軍団が置かれた。

改新の大勅は大化2年春正月であるから、詔勅より遅れることわずか1年。これは日本海の但馬が新羅の防衛にとって重要だったと思われる。

*2軍団 軍団の指揮に当たるのは軍毅(士官)であり、大毅(だいき)、小毅(しょうき)、主帳(さかん)がおかれ、その下に校尉(こうい)・旅帥(ろそち)・隊正(たいしょう)らが兵士を統率した。 千人の軍団(大団)は、大毅1名と少毅2名が率いた。六百人以上の軍団(中団)は、大毅1名と少毅1名が率いた。五百人以下の軍団(小団)は、毅1名が率いた。大毅1名と少毅1名なので、気多団の場合は、600から1000人までの中団規模でなないだろうか。

境内・社叢

  
御神燈             参道石段

  
御神門 (割拝殿)             御神門内境内社

  
拝殿                   拝殿・狛犬

  
拝殿扁額                 本殿

  
境内社                  境内社・手水鉢

地名・地誌

観音寺

観音寺 古くは馬工(ウマタクミ)村。

創建年代は不明だが中世以降、観音寺が建立され、村名も江戸期には観音寺村となる。神社の山頂は三方富士と呼ばれる美しい急勾配の三角形の姿は、垣屋氏が佐々前城から鶴ヶ峰城に移した山城があった。反対側にその居館があったと思われる殿村がある。 鶴ヶ峰城(亀城) 明徳の乱以来、山名時熈(ときひろ)は、垣屋弾正時忠の忠節に感銘し、その子幸福丸(のちの垣屋隆国)を気多郡代に任じた。 のち、山名氏からの信頼が厚く、文亀9年(1502年)から但馬守護代を務めた。永正9年(1512年) 、居城を鶴ヶ峰城に移し、ここを垣屋氏の拠点とした。 のち、但馬国府南方に宵田城、三方方面に楽々前城、三方富士と呼ばれる鶴ヶ峰にそれぞれ城を築き、さらに竹野に轟城を築いて一族を配した。 総領家は楽々前城(佐田)に拠り、宵田・轟の一族を統括して、山名氏家中に重きをなした。戦国時代になると衰退した山名氏に代わって、垣屋氏、太田垣氏、八木氏、田結庄氏が自立、割拠して四家が但馬を支配する勢いを示した。やがて、織田信長の台頭に伴い、但馬に毛利氏、織田氏の影響が及んでくると、山名氏の同盟先を織田氏と毛利氏どちらかにするかで家中は割れると、続成は毛利氏と表明。そのため、同じ山名四天王である田結庄是義と対立し、元亀元年(1570年)、是義の奇襲を受けて、岩井村養寿院で自刃した。四家はそれぞれの思惑で対立するようになり、さらに垣屋氏も一族が分裂する事態となった。垣屋氏総領家は豊臣大名として生き残ったが、関が原の合戦に西軍に味方したため没落してしまった。

ウィキペディア、「播磨屋さんより」

地 図

交通アクセス・周辺情報


観音寺仁王門

室町初期の建造物。県文化財

参 考

『国司文書 但馬故事記』、他


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