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神社拾遺

日本のランドマーク

1.社殿の成立

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神社(じんじゃ・かむやしろ)とは

神社(じんじゃ・かむやしろ)とは、神道の信仰に基づき作られた、恒設の祭祀施設。鳥居の内の区域一帯を、神霊が鎮まる神域とみなす。神社によっては伊勢神宮のように式年遷宮の習わしがあり、数年ごとに、社殿などを新しく造り替える場合もある。

社殿の成立

社殿の成り立ちはいろいろな説があるが、“そこに神が存在していた”ことは間違いないといえる。極端ないい方をすれば、“神”はイコール“社殿(本殿)”であるのかもしれない。

やがて人々は、神が宿ると信じた自然の山や森、老木などの回りに垣や柵を張りめぐらして神籬(ひもろぎ、神が宿る神聖な場所)として相集い、感謝と祈りの“祭り”が行われるようになる。

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大神(おおみわ)神社 奈良県桜井市三輪

例えば、日本で最古の神社の1つとされる奈良の大神(おおみわ)神社は、大和朝廷が成立する前から人々の信仰の対象として祀られていた。この大神神社は社殿のない神社で、神体は拝殿の奥の三輪山である。これと同じような神社には、長野県の諏訪大社上社本宮や埼玉県の金鑚(かなさか)神社などがあり、神を祀る建築物としての社殿が成立する以前の神社信仰の形として知ることができる。

そして、神を祀る象徴としての建築物である社殿に“神”を祀るようになったのです。現在の社殿を伴う「神社」は、これらの神々が御神体から移し祀られた祭殿が常設化したものとされる。

各々の地域の血縁・地縁において自然信仰からはじまった神道と社殿の成立過程を時代区分で分けるのは難しいが、歴史区分における原始・古代・中世・近世・近代・現代とは別に、歴史時代の最初期を意味する語に上代がある。飛鳥時代から奈良時代を指すが、神道においては、上代(かみよ)または神代(かみよ)といい、神話の時代という意味である。初代神武天皇が在位する以前までの時代(紀元前660年以前)のことを指す。神社建築を歴史区分で分けて考えるためには、自分なりに勝手に神話の時代という意味である上代(神代)から始めたい。

上代(神代=かみよ)

丹後一宮籠神社奥宮真名井神社 京都府宮津市 社殿背面の磐座

古代においては、社殿がなく、人々は大地を支配する大自然に神の存在を信じ、祈りと感謝の日々を送っていた。身近にある山や川、草木に神が宿ると信じて、俗(生活に活かす)の山、滝、岩、森、巨木と区別し崇(あが)めたのであろう。

神社の古代(上代)における歴史的な原型は、社殿がなく神々(神や御霊)が宿っている“依り代(よりしろ)”、または、“神代(かみしろ)“として自然環境をご神体(しんたい)とする『神奈備(かむなび・かんなび)』*1にある。神奈備は、神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域や、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)となる森林や神木(しんぼく)や鎮守の森や神体山を、また特徴的な岩(夫婦岩・三重県伊勢市二見輿玉神社)や滝(那智滝・熊野那智大社)がある神域などをさす。

『山岳信仰』の影響で山が神そのものとされることもあり、その山は立入り禁止の『禁足地(きんそくち)』とされたり『神体山(しんたいざん)』と呼ばれたりした。上代から時代が下ると、その神奈備の跡地や鎮守の森に囲まれた神聖な地域に『神社の社殿』が建設されるようになり、その神社の周囲の領地(神領)が『境内(けいだい)』になっていった。神社神道が確立され、社や拝殿や本殿が、建立され敷地(自然との境界)が明確になるにつれ、曖昧であった常世と現世の境界でもある神域がはっきりと区別されるようになり、神籬(ひもろぎ)と磐座(いわくら)・磐境が結びつき、石造の垣根などに代わり、現在の神社にみられる玉垣に変わっていった。

神奈備は大きく分けると、

  • 鎮守の森で神と見なされた巨木の周囲に祭事の際に臨時に玉垣をめぐらして注連縄で囲った『神籬(ひもろぎ)』
  • 神が宿っていると考えられていた巨岩・巨石の『磐座(いわくら)』

とに分けることができる。本来は常設ではなかった。

臨時に神を迎えるために案(あん)という木の台(八脚案(はっきゃくあん)、神饌台(しんせんだい)、八足(はっそく)ともいう)の上に枠を組んで作り、その中央に榊の枝を立てて紙垂と木綿(ゆう)を取り付けたもののことも神籬(ひもろぎ)というが、その原義は『(石などで作られた)垣根』である。また、建物の中に玉垣を設けて常盤木を神と見なしていた時代の神社では、その常盤木(常緑樹の榊など)のことを神籬と呼んだりもしていた。

  

奈良春日大社内の龍王珠石(紀伊神社西側) 出雲大神宮磐座(京都府亀岡市)

古代(上古)

上古とは歴史区分の古代のなかで飛鳥時代から奈良時代を指す。飛鳥時代は、崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)の118年間にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代で、草創期は古墳時代の終末期と重なる。推古天皇元年(593年)に聖徳太子が摂政になってから、聖徳太子が国家の基軸に崇仏派の蘇我氏とともに仏教を据えて、廃仏派の物部氏を滅ぼし、律令制を敷き天皇中心の理想の国家体制作りの礎を築いた。仏教とともに仏教建築が入り、神木・磐座など神籬も、お社を形成するようになる。奈良時代以降、神仏関係は次第に緊密化し、平安時代には神前読経、神宮寺が広まった。

しかし、奈良時代の仏教伝来以降の神社建築は、日本の上古の建築を復古的に採用し、仏教伝来に影響を受けながら仏教建築のデザインを意識的に排除しつつ成立したと考えられる。寺院建築や宮殿建築には隋の建築様式である、妻に庇がある入母屋造・四方に屋根が伸びた寄棟造が用いられているのに対し、神社建築の特徴の一つとしては、伊勢神宮・出雲大社に代表される掘建て柱・切妻造様式の尊重がある。例:神明造(切妻造に棟持柱があるもの)

中国から見れば、切妻造や入母屋造より、寄棟造が格式が高いとされるが、なぜ神社建築においては、伝統的に切妻造や入母屋造が圧倒的に多いのか。ここに日本古来からの神に対する概念や穢れを祓い清める神聖な場所であることを大切に継承しようとする日本人の風習にあると思う。伊勢神宮で20年ごとに執り行われる式年遷宮は、遷宮によって絶えず神が宿っている神籬を清める例であろう。

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入母屋造の四天王寺金堂          切妻平入りの神明造 伊勢神宮内宮別宮 倭姫宮

神社建築は、一宮などの各有力神社において固有の様式を採っており、なおかつ、その固有の伝統的な様式を維持しようと努めている。そのため、神社建築の様式を解明することは、その神社の祭神の性格を知る上で重要な手がかりの一つとなる。後にできた神社においても、建立当初の様式を保つものが多い。

神社信仰は仏教のように一定の教義を共有する普遍的なものではなく、基本的には各神社個別のものである。古代における伊勢、出雲などの大社の信仰も、国家の鎮護や地域の平安など祈願内容こそ共通するものがあるが、祭神、建築物は異なり、祭儀も(祝詞・供物・芸能など)も異なっていたであろう。

次に基本的な「神社」の機能は、国家・氏族・地縁など何らかの共同体固有の信仰対象として、宗教上の核となることである。血縁、地縁による宗教上の核は原始時代の民族信仰の中にあったでしょう。しかしそのすべてを一括りに「神社」信仰というわけにはいかない。

そうすると、「神社」とは何かの概念が重要である。「神社」の概念の形成は、律令制で神祇(じんぎ)政策がとられて以後のことと考えられる。それは、七世紀中期の天武朝における祈年祭(としごいのまつり)から始まるもので、地方ですでに成立していた民族信仰などの宗教施設(建築物等の明確な形態をとったとは限らない)を、国家が神社として認知し、幣帛(へいはく)を配ることが基本である。

春日大社がこの頃にすでに現在の春日造りであったかは定かではないが、切妻造の妻側に庇が付いた春日大社に代表される春日造や住吉大社の住吉造(切妻造・妻入)などが現れるはこの頃ではないだろうか。

古代後半

桓武天皇が都を平安京に遷し、平氏政権の成立する平安時代末期以前を勝手に区分してみたい。
奈良から都を784年に長岡京、さらに794年に平安京へ遷都した理由には、大和(奈良)の貴族や僧の間で勢力争いが激しくなり、政治が混乱したためといわれている。

律令制を引き継いだ平安時代中の十世紀、『延喜式』には、当時の国家が神社として認めた2861社、3132座の「神名」が記載されている。*2 これらが、この時点で国家に認められた神社である(式内社という)。これらの他に、国家に準じて地方で認知された神社もあっただろう。しかし、この三千余りの「神社(式内社)」の実態は、ごく一部の大社を除いて不明です。したがって、国家が何を基準に神社と認知したのかも明らかではない。

中世

日本の中世は、一般的には、平氏政権の成立(1160年代、平安時代末期)から、鎌倉時代を挟んで、安土桃山時代(戦国時代末期)までが「中世」と目される。平安京の律令制は平氏政権の成立により武家政権へかわり混乱していく。鎌倉幕府が開かれ鎌倉時代。律令制からやがて武家社会となると、大きな神社も国家主体から武家政権の影響が濃くなっていく。神仏習合とともに神社建築と寺社建築は、同じ境内に共存し合い渾然一体とした建築様式へ進む。比叡山と日吉大社の関係のように、神社建築は三面に庇の延びた入母屋造りの発展形である日吉(日枝)造や、数は少ないが本殿2棟を1棟に結合した形態の吉備津彦神社の比翼入母屋造(吉備津造)などがある。

神社の建物構成と名称についての詳細は、「3.神社の建物構成と名称」で記述しているが、寺社建築の発展によって、出雲大社などの大社造(ほぼ正方形の古典的な日本家屋に近い「田の字」形で、切妻造・妻入であり、屋根には優美な曲線が与えられる。)や、切妻造の拝殿側の平側に庇が延びた流造(賀茂別雷神社(上賀茂-)・賀茂御祖神社(下鴨-)など)が現れる。

屋根構造も伊勢神宮に代表される日本古来の切妻造の直線から、流造りという寺院本堂のように傾斜がゆっくりと反り(カーブした曲線)がある建築様式は、本殿の様式としては最も多く、本殿の七割近くを占める。前方のみ庇が伸びた流造り以外にも、両側に庇を付けた両流造は厳島神社、松尾大社などに見られる。出雲大社の社殿に関しては鎌倉時代より前の記録がないため、延享元年(1744年)建立の現社殿が基本形とされる。したがって、古事記に登場する国譲りの創建当初は、伊勢神宮に近い切妻造で現在の大社造が妻入りであることから、切妻造妻入りではなかった。

近世

近世に入ると寺社はさらに領地における領主の加護を受ける。大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社とする八幡信仰と八幡神社は全国で最も数が多く、日吉(日枝・山王)神社八坂神社など武神を祀る神社や、豊臣秀吉を祀る豊国神社や徳川家康を祀る東照宮大権現や権現神社、初めは天候を司る神とされ、やがて学問の神として広く信仰を集めた菅原道真を祀る天満宮(天神)、また経済繁栄を祈願する稲荷神社やえびす神社などが隆盛を極める。権現造、浅間造、尾張造などの複合社殿形式、多様な建築形式が生まれ、造作も凝らされて曲線のある唐破風や彫刻などが施され、社殿は絢爛豪華なものが現れるようになる。

八幡造は、2棟の建物を前後に連結させてひとつの社殿になったもの 宇佐神宮、石清水八幡宮など。
権現造は、石の間造とも呼ばれ、本殿と拝殿の2棟を一体化し、間に「石の間(いしのま)」と呼ばれる一段低い建物を設けている。北野天満宮、日光東照宮など。

注意しなければならないのは、各旧国・郡・郷などの地域の長・村の墳墓の鎮守として古代から続いてきた神社も、八幡神社・八坂神社・天満宮等に名称・祭神が変更された例が多く、そうした神社を新しく創建したものではない例が多いということである。

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八幡造 石清水八幡宮            権現造 北野天満宮

各社殿のくわしい形式については別項 4.社殿の様式 へ

[註]

*1 神鍋山(兵庫県豊岡市日高町)も火山の噴火口が神様の大きな鍋のようだからという説もあるが、神奈備山が訛ったものであろう。
*2 『延喜式』で、初めて当時「官社」とされていた全国の神社一覧を記した巻九・十のことである。延喜式神明帳(えんぎしき じんみょうちょう)という。「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。(式内社については別項へ)


文献
『古社寺・仏像の見方入門講座』東洋文化学院
放送大学面接授業『建築史からみた神社の歴史と信仰』神戸大学教授 黒田龍二先生
ウィキペディア

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