村社 八幡神社(式内兵主神社論社・兵庫県朝来市山東町森)

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社 号 八幡神社

式内社 但馬国朝来郡 兵主神社論社

読み:はちまんじんじゃ
所在地 兵庫県朝来市山東町森字宮馬場706
旧地名 但馬国朝来郡粟鹿郷

御祭神 誉田別尊(ホムダワケ)=応神天皇・八幡神
祭礼 10月17日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
朝来郡(アサコ・あさご):9座(大1座・小8座)

近代社格制度 旧村社

創建     不詳
本殿様式

境内摂社(祭神)

一口メモ

山東町森宮馬場となっているが三保集落の氏神で、柿坪の兵主神社から三保までは約1.3km南に鎮座。知らずに行ったのだが、ちょうど10月17日はこの地区の秋祭りが行われており、通り過ぎた粟鹿神社も賑わっていた。粟鹿地区は秋祭りは毎年曜日にかかわらず10月17日に決まっているのだろうか。

境内では子供相撲が行われており、学校も休校のようだ。平日の月曜日なのに粟鹿神社も人出が多かった。(後から調べると秋季例大祭(10月17日)だった。)社殿下の石垣は相撲桟敷として今も使われていた。相撲桟敷は近くの竹田の表米神社が有名だが、ここでは実際に使われている様子を実際に見る機会を得たのはラッキーだった。八幡神社の西方にある竹田城下の表米神社に、全国的にも珍しい「相撲桟敷」が残っているが、ここも相撲桟敷があり、石段にはびっしりと村中の老若男女が腰掛けていて相撲桟敷の実際の使用している情景を生で見ることができた。

歴史・由緒等

明治6年(1873)10月村社に列せらる。同42年(1909)八幡社を八幡神社と訂正せり

-「兵庫県神社庁」-

 

朝来郡朝来村鎮座

祭神 素戔嗚命・大砺目命

人皇三十七代孝徳天皇の大化三年秋三月、朝来軍団の主帳・朝来直・知嘉麿は、兵主神社を兵庫の側に祀り、兵庫守護の霊神となし、かつ祖・天砺目命を下座に合祀す。

『国司文書 但馬神社系譜伝』

 

『国司文書 但馬郷名記抄』には、
朝来村(柿坪)
朝来直在住の地なり。朝来直は、丹波国 今は丹後国加佐郡朝来(舞鶴市朝来)の人。
孝徳天皇の御世、朝来軍団を置く。故に兵庫を建て、兵主神を祀る。

人皇44代元正天皇霊亀2年春3月、
荒島宿祢の子・乙主(一に磯主)を以って、朝来少領に任じ、養老7年、朝来大領に任ず。
若倭部貞良を以って、主政に任じ、
忍阪連仲麿を以って、主帳と為す。
若倭部貞良はその祖・武額明命を和賀丘に祀る。(和賀山神社)
養老3年冬9月、朝来軍団を廃し、健児所(こんでい)と為す。
健児所を物部村に遷し、(中略)

『国司文書 但馬故事記』(朝来郡故事記)

以上から考えると、『国司文書 但馬神社系譜伝』に朝来郡朝来村鎮座とあり、朝来村は(柿坪)とあることから、朝来という郡名の発祥が柿坪の古名であるようだ。
だとすれば、
朝来村→柿坪、朝来軍団を置く。
故に兵庫を建て、兵主神を祀る。

朝来の式内兵主神社は柿坪にある兵主神社が最初で、祖・天砺目命を下座に合祀す。八幡神を祀ることから、中世、表米王の末裔日下部氏の時代になって、ここの小字名が宮馬場であること軍団の乗馬練習場であった可能性を似酔わせる。柿坪の式内兵主神社が上社で、森の当社が下社とされていたのではないだろうか。

境内・社叢

  
社叢                           東側の鳥居

  
本殿覆屋

  
境内社

  
こども相撲大会

地名・地誌

地 図

兵庫県朝来市山東町森706

交通アクセス・周辺情報

参 考

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