名神大 摩気神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社号 式内社(名神大) 丹波国船井郡 摩氣神社
読み 古 マケ 現 まけじんじゃ
所在地 京都府南丹市園部町竹井字宮ノ谷1
旧地名 丹波国船井郡
御祭神 大御饌津彦命(おおみけつひこのみこと)
例祭日
お田植祭(6月5日に近い日曜日)
神幸祭(10月第3土・日曜日)

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹波国(タンバ):71座(大5座・小66座)
船井郡(フナイ):10座(大1座・小9座)
式内社(名神大)

中世社格制度
近代社格制度 旧府社

創建     創祀の年代等は不明だが、『新抄格勅符抄』所収の大同元年(806年)の牒に神護景雲4年(770年)に神封1戸が充てられたことが見えるので、それ以前にさかのぼることは確実とされる。
本殿様式   一間社流造柿葺

内摂社(祭神)

本殿の両脇に東西2摂社がある。
東摂社 船阪と大西の3八幡宮(船阪八幡宮、大坪八幡宮、西山八幡宮)
仁江蛭子神社、口八田の葛城神社
西摂社 黒田の熊野神社、横田の若宮神社と三輪神社、大村の加茂神社、宍人菅原(すがはら)神社、半田大森神社

また、塞神社、琴平神社、山王神社、稲荷神社の小祠と伊勢神宮の遥拝所もある。

文化財

摩気神社本殿附覆屋1棟 府指定文化財
東摂社附覆屋1棟・西摂社附覆屋1棟 府指定文化財
摩気神社絵馬舎・神門・鳥居 府登録文化財

一口メモ

山陰道/国道9号線をJR園部駅に近い地点から1.9 km北上し、園部河原町(交差点) を左折して 国道477号線 に入る。
550 m行き、横田(交差点)でまっすぐ府道54号線へ進む。
4.4 kmで社号標がある細道を左折し、燈籠がある園部川を渡り府道477号線と交差点をそのまま500m。
大社だと知ってはいたが、訪れてその全容に圧倒されてしまうほど迫力がある。すでに何百社も訪問したが、出雲(松江市)の神魂(かもす)神社の高床式本殿にも負けない感動を受けた。
茅葺き屋根(一間社流造柿葺)、で古代の神社がそうであったのだろうと思われる本殿がそのまま残っているのだ。狛犬に小さなカラスヘビがいて驚いたが、蛇が苦手なのだが、昨今蛇がいなくなり、久しぶりに狛犬で遭遇した。ヘビは神の使いとされ大事にされたが、意味が不思議と違和感なく感じられたことも、この大社にしてむべなるかな。

歴史・由緒等

当摩気神社は往古延喜式内名神大社で祭神は大御饌津彦である。奈良朝称徳天皇御代神護景雲4年以前に奉祀されており1200有余年を経た丹波の古社である。
文徳天皇の仁寿2年(853)勅使奉幣、清和天皇の貞観元年(859)神位従5位上を奉られた。その後承歴3年(1079)白河天皇■■篤く崇敬され神事祭礼を復興されて「■■第一摩気大社」の勅額を賜った。下って■和5年(1619)小出吉親公但馬出石より園部初代藩主として移封されてより10代200年間領主代々の祈願所となり神社建物は一切官営となっていた。宝暦11年12月(1751)不幸火災に罹り全焼したが明和4年(1767)時の藩主小出英持公社殿等一切を再建し現在に至っている。
祭神大御饌津彦命は天孫降臨供奉■■た天児屋根命の御子天忍雲根命の尊称で皇孫邇々杵命が我が国を知らし召すに大切な天津御饌の水を調え奉られた御功績を称してこの御名を奉称し古来農業食物の神として神威誠に高い(マケはみけの転音である)
たたなづく青垣山環る当神社社域と社殿神門鳥居等の建物は森厳な雰囲気を保ちながら珍らしい丹波北向きの神として古社鎮座の聖域に相応しい環境を有している。
京都府文化財保護指定建造物
一、本殿及び東西両摂社(覆屋共)
本殿は一間社流れ造りで府内最大のもの
同文化財登録建造物
一、神門 絵馬舎 大鳥居
同文化財環境保全地区
境内全域 広さ約53アール(1600坪)

「社頭掲示板」

ウィキペディア

『延喜式神名帳』に名神大社として登載された式内社で旧社格は府社。園部盆地の最西端、胎金寺山北麓に北面して鎮座する。宮本(鎮座地)である竹井集落を始め、篠山街道沿いに広がる周辺集落共通の氏神として近世以来「摩気郷十一ヶ村の総鎮守」と称され、それら集落が共同して行う神幸祭は規模と古態の伝承の面で丹波地方における祭祀の重層構造の典型とみなされている。なお、社殿が北面する丹波地方唯一の神社としても知られる。

現在神社ではこの大御饌津彦命を天児屋根命の御子神である天押雲根命の別称と説くが、水や食物を司る神であるとも説いており、また大御気津姫命(おおみけつひめのみこと。大宜都比売神)と考証する異説もあることや[出口延経『神名帳考証』等]、神社名「マケ」は「御食(みけ)」から来たと考えられること、現行神事のお田植祭やお千度から農事に深く関わる神であることがわかることから、食物を主宰する食物神(御食津神(みけつかみ))であるとみられている(ただし、丹波道主尊を祀るとする説もあった)『式内社調査報告』。なお、鎮座地の立地からかつては背後の胎金寺山を神体山とした可能性も指摘されている。『日本の神々』

近世

江戸時代に別当寺院として当神社を管掌した胎金寺(廃寺)の本寺である九品寺の縁起によれば、白河天皇の皇子覚行法親王が九品寺の中興開山となった縁で承暦3年(1079年)に同寺へ行幸があり、同寺の鎮守であった当神社へは「船井第一麻気大社」の勅額を下賜して神事祭礼を復興させたとたといい、この白河天皇の行幸云々は後世の附会と思われるものの、長享2年(1488年)5月に翌年の当神社の頭役を担当する九品寺の僧坊が定められ、半年後の同3年正月にも同様のことが行われているので、これより以前に同寺の影響下にあったことは窺え、応永31年(1424年)の「丹波国篠村八幡宮造営段銭京済分注文」(醍醐寺文書)に「麻気社七町 分銭五貫六百文」と見える「麻気社」も当神社を指し、これも九品寺の影響下にあった事を示す記録と思われるので、あるいは次第に衰退したものとも思われる。

江戸時代に園部藩藩主小出氏の崇敬を受けて復興し、元禄年中(17世紀末)には本殿の修理を始め覆屋や拝殿、楼門、石鳥居等の再建、建立といった社頭整備が藩費によって行われた。また、小出氏歴代の祈願所とされて藩主の直参や代参が行われ、上記胎金寺が別当寺と定められた。藩からの参拝がある時には社前の園部川に架かる摩気橋で下馬する定めであったため、摩気橋は一に馬橋とも称されている。

近現代

中世から近代初めまで五大山胎金寺が別当として管掌し、同寺が廃された後は園部藩士の出である上田氏が宮司職を継いでいる。明治六年郷社に列し、大正五年府社に昇格した。

境内・社叢

  
社号標 府道54号線沿い 奥に大庄屋さんだったと思われるすごい蔵が見える。  鳥居

  
社頭の社号標                    随神門


境内由緒案内板

  
手水舎         絵馬舎

  
狛犬

  
神楽殿(舞殿)

  
本殿 一間社の社殿としては丹波地方のみならず京都府下においても最大規模のもの

本殿左 西摂社              本殿右 東摂社


神社入り口左 御神水

地名・地誌

鎮座地周辺には園部町口人(くちうど)の安谷古墳群を始めとする古墳が散在し、古銭出土地もあるため、当地一帯が早くから開けた地であった事が窺える。

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考

『延喜式の調査』さん、他

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