社号 太刀宮神社
読み: たちのみや
所在地 兵庫県豊岡市日高町庄境25
旧地名 但馬国気多郡太多郷庄境村
御祭神
劔太刀日嗣御神(ツルギタチヒツギノミコト)
『国司文書 但馬故事記』に、
例祭日 10月9日
『気多郡神社神名帳』記載三ニ社のひとつ
近代社格制度 旧村社
創建 不詳
本殿様式
境内の木々は高くそびえていて社叢は国道482号線からとてもよく目立つ。式内社を調べているので、式外社の村社まして無資格社まで調べていると無理だが、何故に旧日高町(気多郡)は神社が多いのかが神社に興味をいだいたきっかけだった。もちろん、但馬国府が置かれていたのだから、周辺の神社が式内社に掲げられるのは当然かもしれない。としても、かつての但馬国は旧国で5番目に式内社数が多いのだ。それは私に「日高町に生まれたなら、神社を調べよ」と神がおっしゃっているのではと(そんなことはないけど)もったいない遺産なのだと気づいたからである。
西中学校の西側にある尾根に作られた古墳群。弥生時代後期に集団墓を造り、その後5世紀頃に再び古墳の用地として利用している。
Googleマップで古史料にある所在地を確かめたところ、西中学校裏手の山を指す。所在地は古社地かも知れない。
「兵庫県神社庁」に、弘化2年(1845)遷宮とある。
創立年月不詳
弘化2年(1845)遷宮を行い、明治6年(1873)10月村社に列せらる。同20年(1887)又遷宮を行へり。
-「兵庫県神社庁」-
『国司文書 但馬故事記』に、この神社らしき記載がある。
剣宮と鷹貫氏斎く所の太刀宮が不明であった。「兵庫県神社庁」にそれらしい神社は、太刀宮神社 (兵庫県豊岡市日高町庄境)があったので、何かその由来があるかも知れないと思うのだが・・・。西中建設時、付近から弥生遺跡や古墳が出土しているので、古くから太多郷と気多郡の中心であった可能性は高い。
人皇十一代垂仁天皇四十五年冬十月、
当芸利彦命の子、国鎮剣主命を以って、気多県主と為す。
国鎮剣主命は国鎮御剣を剣宮に奉安す。鷹貫氏斎く所の太刀宮は甕布都神 是なり。
社叢
国道からもよく眼に入る大木 社殿
社殿 境内社
庄境
太多郷と高田郷の境は、久田谷と夏栗。庄境は名の通り、太多郷・三方郷・高田郷が分かれる郷(庄)の境にある。現在はバイパスができ、旧道になった少し東には通称「辺坂」といわれるバス停があるが、旧道はそこから分岐して、楽々前郷・三方郷へ。ここを通らないと他に道はなく要所だ。
ちなみに、道場にある静修小学校校区は、久田谷・道場・夏栗三区であるが、調べると、久田谷は太多郷、道場は楽々前郷、夏栗は高田郷で、みな別の郷だったのである。
カナヘの里公園
山頂には展望台や小山遺跡という遺跡跡がある。西中学校の西側にある尾根に作られた古墳群。弥生時代後期に集団墓を造り、その後5世紀頃に再び古墳の用地として利用している。古墳は5世紀から6世紀初めにかけてのもので、5基確認されている。さらに7世紀には、須恵器を焼くための窯が斜面に造られる。1号墳からは、鉄製の短甲(よろい)や刀等の武器類、勾玉、ガラス玉を入れた須恵器が見つかっている。
-引用:兵庫県教育委員会より-