式内 葦田神社

      2017/03/20

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概 要

社 号 葦田神社

式内社 但馬国気多郡 葦田神社
読み:古 アシタ 現 あしだ
所在地 兵庫県豊岡市中郷森下1141
旧地名 但馬国気多郡日置郷中郷村
御祭神 天麻止都袮命(あまのとしね のみこと)
『国司文書 但馬神社系譜伝』 天目一箇命(あめのまひとつ のみこと)
例祭日 10月15日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
気多郡(ケタ):21座(大4座・小17座)

『気多郡神社神名帳』記載三ニ社のひとつ

近代社格制度 旧村社
創建     不詳
本殿様式   流造 柿葺

境内摂社(祭神)

稲荷神社

一口メモ

国道482号線を出石方面へ東へ進むと、豊岡市中筋地区への県道249号線と分岐するあたりで、482号の南側の農道へ入り奥へ進むと、境内がある。2008年11月29日訪ねたときは、まだ神社巡りを始めた頃で、南西向きの境内は、フェンスで囲まれ、入口には鉄の門が付けられていたので、境内へは入れずに帰った。このあたりの神社では、鹿除けのフェンス等が設置されていることが増えており、一般者は入ってはいけないものと思っていたのだが、今思えば、参拝の場合は自分で門を開けばいいとわかった。2度めはその門とは別に山沿いに車道があって、門を開けなくても境内に行ける。

歴史・由緒等

標高100mほどの愛宕山に鎮座します。 鎮座地の背後の山を、愛痛山と呼び、愛痛大明神とも言われています。

天日槍が当地を開き、眺望の良い場所に宮を建てるため、当社祭神に命じて、国内の見分をさせたといいます。当地に到った祭神は、その眺望の良さに自分の屋敷を立てようと考え、天日槍には、別の場所を報告しました。 その後、当地に来た天日槍は、祭神の嘘に怒り、祭神を切りつけた。足を傷めた祭神は、「アイタ」と叫び、山に逃げ込んだ。 後日、天日槍は祭神を許し、当地を賜り、祭神は感謝して屋敷を建て、足を傷めた人々を救済したという。 天日槍の随神である祭神の名は不明だが「アイタ」と叫んだ祭神は「あいたっつぁん」と呼ばれるようになった。 また、祭神が切りつけられた際に勢い余って傍らの岩も切り付けたといいその岩(切岩)も境内にあるようです。猪除けのためフェンスがあり中まで入らずに帰りました。すぐ近くに竪穴系横口式古墳の大師山古墳群があり、賀陽という地名から伽耶国に関係ありそうです。

『国司文書 但馬故事記』気多郡故事記・上 に、
人皇15代神功皇后立朝の2年5月21日、
気多の大県主物部連大売布命薨ず。寿150歳。射楯丘(*1)に葬られました。
物部連大売布命の子、物部多遅麻連公武(もののべのたぢまのむらじきみたけ)を、多遅麻国造(くにのみやつこ)とし、(多遅麻国・但馬国の)府を気立県高田邑に置きました。
物部多遅麻連公武は、
天目一箇命(あめのまひとつのかみ)(1)の裔(すえ) 葦田首(おびと)を召し上げ、刀剣を鍛えさせ、
彦狭知命(ひこさちのみこと)(2)の裔 楯縫首を召し、矛・楯を作らせ、
石凝姥命(いしこりごめのみこと)(3)の裔 伊多首を召し、鏡を作らせ、
天明命六世の孫、武碗根命の裔 石作部連を召し、石棺を作らせ、
野見宿祢命の裔 土師臣陶人を召し、埴輪・甕・秀罇(ほたり)(4)・陶壺を作らせました。
また、大売布命の御遺骸におもむき、 御統玉を以って、髻(もとどり)を結い、御統五十連の珠を以って、御頸に掛け、御霊の鏡を御胸に掲げ、御統玉を以って、てっこう・はばきに結び、 御剣を御腰に佩(は)かせ、御楯を左手に捧げ、御矛を右手に携え、磐石の上に立て、これを石棺に納めて、射楯の丘に葬りました。 そして、埴輪(はにわ)を立てて、御酒を秀樽(ほたり)に盛りました。 御食(みけ)を陶壺に盛りて、これを供え、草花を立てて、祀りました。

人皇16代仁徳天皇の元年(313年)4月に、
物部多遅麻連公武の子・物部多遅麻毘古(たじまひこ)を、多遅麻国造とし、府を日置邑に移しました。 物部多遅麻毘古は、物部多遅麻連公武を射楯丘に葬りました。
5月、将軍荒田別命は、子の多奇波世君(たけはせのきみ)の弟・田道公(たみちのきみ)を山口邑に置き、田道公の子・多田毘古を多他邑(2)に置きました。 ゆえに、多他毘古を名づけて、多他別の田道と云います。 多他の名は、この荒田別命が夜夫県主(やぶあがたぬし)(三代)・竹野彦命の娘・宇日比売命(ういひめのみこと)を娶り、多奇波世君(他に竹葉瀬公と書く)・田道公(他に田路と書く)を生んだことに基づきます。

2年(314年)春3月、物部多遅麻毘古は、物部多遅麻連公武の霊(みたま)を気多神社に合祀しました。 これにならい、葦田首(あしだのおびと)は、鍛冶(かじ)の祖・天目一箇命を鍛冶丘に合祀しました。(式内葦田神社・豊岡市中郷)
楯縫首(たてぬいのおびと)は、楯縫の祖・彦狭知命(ひこさちのみこと)を楯屋丘に祀りました。(式内楯縫神社・豊岡市日高町鶴岡(かつては多田谷に在り)
伊多首は、鏡造りの祖・石凝姥命(いしこりどめのみこと)を鋳含(いふく)丘に祀りました。(式内井田神社・豊岡市日高町鶴岡)
石作部連土師陶人(はじのすえびと)等は、その祖・建碗根命・野見宿祢命を陶谷(すだに)丘に合祀しました。(式内須谷神社・豊岡市日高町藤井)
日置首は、その祖・櫛玉命(くしだまのみこと)を日置丘に祀りました。(式内日置神社・豊岡市日高町日置)

[註]
(*1)射楯丘
「太田文」気多郡高田郷石立村
石立のもとは射楯。
(1)製鉄・鍛冶の神
(2)楯縫部の祖
(3)作鏡連(かがみづくりのむらじ)らの祖神
(4)秀罇(ほたり)…瓶の一種。丈の高い銚子(徳利)ような形のもの。

 

のどかな田園に囲まれた神社。拝殿の手すりには、靴や松葉づえ、ギプスなどがひもでくくりつけてある。足のけがが治った人が神様へのお礼に供えているのだという。

神様の名前は「あいたっつあん」。足痛の神様として信仰を集めてきた。
近くに住む森本幸二さん(73)は「今でこそお参りに来る人も減ったが、昔は但馬一円から集まったわらじやぞうりが柱などにいっぱいかけられていた」と言う。

その昔、天日槍(あめのひぼこ)が湖の底だった但馬を切り開いていたころの話。天日槍は、美しい田んぼが見渡せる所に屋敷を構えようと家来の神様に適当な場所を探させていた。

ところが、家来は中郷に見晴らしのいい土地を見つけたものの、自分が気に入ってしまって天日槍に隠していた。

それを知った天日槍が激怒。剣を抜いて家来に切りかかり、驚いて飛びのいた家来の足を傷つけ、そばにあった岩にまで傷をつけた。

しばらくして、天日槍は怒りすぎたことを反省し、見つけた土地を家来に与えた。家来は喜び、住人の足の痛みを癒やすことを誓ったという。

「あいたっつあん」と呼ばれるようになったのは切りつけられたとき、「あいた!」と言ったからだとされる。神社の辺りの小字名は「アイタチ」。近くにある狭間坂のわきには、刀傷のついた岩が残っている。

引用:神戸新聞「但馬の説話探訪」

境内・社叢

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社叢                   鳥居

  
社号標             手水舎

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境内 あいたつぁん 「足痛の神」の由来案内板

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拝殿前に新旧2対の狛犬

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拝殿

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境内社 稲荷神社

地名・地誌

古くは葦田
気多郡日置郷中郷村

倭名抄
日置郷 日置神社。日置(ヘキ)・多田ノ谷・伊福(イフ・今の鶴岡)・上ノ郷・中ノ郷の五村
祀典所 総社明神と称える上郷村の気多神社・中郷村の葦田神社・伊福村の井田神社・多田ノ谷村の楯縫神社

タグ
昭和30年に気多郡は城崎郡日高町、中郷は豊岡市に編入となり旧日高町ではありませんが、旧城崎郡ではないのでタグは日高町(旧気多郡)としている。

地 図

兵庫県豊岡市中郷1141

交通アクセス・周辺情報

参 考

 - 日高町国府地区(気多郡国府郷)・中筋地区(加陽郷) , ,