式内 美保神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社 号 式内社 出雲国島根郡 美保神社
「美保社」『出雲国風土記』
読 み:ミホ、みほ
所在地 島根県松江市美保関町美保関608
旧地名 出雲国島根郡美保郷
御祭神 事代主神(ことしろぬしのかみ) 三穂津姫命(みほつひめのみこと)

例祭日 4月7日(青柴垣神事)

神迎神事
虫探神事
諸手船神事

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
出雲国 187座(大2座・小185座)
島根郡(シマネ):14座(並小)

『出雲国風土記』 「美保社」

近代社格制度   国幣中社
近代社格制度以後 別表神社

出雲国神仏霊場八番(20社寺)

創建     年代不詳 天平5年(733)『出雲国風土記』に「美保社」と記載があるのでそれ以前
本殿様式   美保造 大社造の社殿2棟を横に並べた本殿
境内摂社(祭神)

文化財

重要文化財(国指定)
建造物
美保神社本殿 附:棟札18枚 – 文化10年(1813年)
重要有形民俗文化財(国指定)
諸手船 2隻
美保神社奉納鳴物 846点
そりこ 1隻
県指定有形文化財
紙本墨書手鑑(てかがみ)
県指定有形民俗文化財
アバニ 1隻 附:櫂17本、アンバ20本
ともど 1隻

一口メモ

松江市街から帰路は、9号線より大回りになるが、島根県の名前であり、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれている国引きをしたという島根半島東端に位置する当社は他の神社と離れているものの、ぜひたずねてみたかったので、回って帰ることに。

『出雲国風土記』の国引き神話は、
八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。そして、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島であるという。国を引いた綱はそれぞれ薗の長浜(稲佐の浜)と弓浜半島になった。そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという。

松江駅からくにびき大橋南詰交差点を左折して 国道485号線 に入る。右折して国道431号線に入る。片側2車線のバイパスができている。松江から中海沿いの道は一本道を東へ約20km。美保関町森山で431号線は左折し境港への大きな橋へ向かうので、まっすぐそのまま進むと県道2号線となり狭くなる。小さな漁港、美保関の港にある。平成の合併で美保関町も松江市となった。松江市もずいぶん広くなった。車でも市街から1時間かかるこの道程を、昔の人は徒歩で参拝したのか?いや違うだろう。境港から船を利用すれば、そんなに不便でもない。

神社前は広く、参道脇の数軒の土産物店は日曜日だが閉まっている。路地に飲み屋街があり、木造旅館が数軒ある。大きな神社なのにかつての賑わいはないのが寂しいが、昭和3、40年代の子どもだった頃にタイムスリップしたような懐かしい感覚を味わう。鳥居の横にある土産物店の邪魔にならない場所に車を止める。境内では子供たちがサッカーボールで遊んでいた。知らない私が境内に近づくと、こんにちはと明るくあいさつしてくれた。小学校のしつけがいいのか、観光客慣れしているのか?子供たちの純朴さが古の古社とともに日本らしさが懐かしく感じられた。

歴史・由緒等

美保神社略記
御祭神
三穂津姫命(みほつひめのみこと)別号大御前(おほごぜん)左殿(向って右の御殿 )
事代主神(ことしろぬしのかみ)別号二御前(にのごぜん)右殿(向って左の御殿) 。
事代主神

天照大神の御弟須佐之男命の御子孫で、出雲大社に鎮ります大国主神の第一の御子神 様にましまして、天神の系を承けさせられた尊い大神様である。夙に父神を御扶けな されて国土の経営産業福祉の開発におつくしになった。天孫降臨に先だち天つ神の使 の神が出雲にお降りになって大国主神にこの国を天つ神に献れとお傳へになった時、 事代主神はたまたまこの美保碕で釣魚をしておいでなされたが、父神のお尋ねに対し 、畏しこの国は天つ神の御子に奉り給へと奉答せられ、海中に青柴垣(あをふしがき )をお作りになり、天逆手(あめのむかへで)を拍っておこもりになり、大国主神は そのお言葉通り国土を御奉献になったと傳へてゐる。かくて事代主神は多くの神神を 帥ゐて皇孫を奉護し我国の建国に貢献あそばされた。又神武天皇綏靖天皇安寧天皇三 代の皇后はその御子孫の姫神で、国初皇統外戚第一の神にあたらせられ、なほ古来宮 中八神の御一柱として御尊崇極めて篤い神様である。

當神社古傳大祭である四月七日の青柴垣(あをふしがき)神事、十二月三日の諸手船 (もろたぶね)神事は、悠遠の昔、わが大神様が大義平和の大精神を以て無窮の国礎 を祝福扶翼なされた高大な御神業を傳承顕現し奉るものである。

三穂津姫命
高天原の高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の御姫神にましまして、大国主神の御后 神として、高天原から稲穂を持って御降りになり庶民の食糧として、廣く配り與へ給 うた有難い大神様で、美保といふ地名はこの神の御名にゆかりありと古書は傳へてゐ る。

御神徳

そもそも事代主と申す御神名は事知主の義であって、すべて世の中に生起するあらゆ る事を辧ヘ知しめて是非曲直を判じ邪を避け正に就かしめられる事の大元を掌り給ふ 意味で、平たくいへば人の世の日常の行為や行動を教導し主宰せられる偉大な御神徳 を頌へ奉ったもので、大神様は実に叡智の本躰、誠(真実、真事)の守神と拝し奉る 。又大神様を明神様・ゑびす様と申上げ釣竿を手にし鯛を抱かれた福徳円満の神影を ゑがいて敬ひ親しみ、漁業の祖神、海上の守護神と仰ぎ、水産海運の御霊験の廣いこ とはあまねく知られて居る通りである。そして大神様の大義平和叡智推譲の御神徳、 産業福祉の道をお拓きになった御神業、庶民慈育愛撫の御神恩を感謝尊崇し、福徳の 神と仰ぐ信仰は極めて廣く行きわたってゐる。

又當社に古くから傳って居る波剪御幣(なみきりごへい)は大神様の海上守護の神徳 に因んで、山なす狂乱怒涛をも推し切って航行を安泰ならしめ給ふ霊徳を表現した御 幣で、延いて水災火災病難等原因の何たるを問ふことなく人生に起る狂乱障害を祓除 し家内の安全家門の繁栄を守り給ふとしてこれが拝授を願ふ篤信者が多く、そのあら たかなる霊験は数多い開願報賽の絵馬によっても窺ふことができる。又経済商業に福 運を授け給ふ神としての信仰は、今もいろいろ土俗に残り、商業の「手拍ち」は天の 逆手の故事に起因すると申してゐる。

三穂津姫命は高天原の齋庭の稲穂を持ち降って農耕を進め給ふたので、當社には古く から御種を受ける信仰があり、安産守護の御神徳は、特に著しい。稲穂は五殻の第一 である米を意味するのは勿論、農作物一切を代表し更に生きとし生けるものことごと くの生命力を表現してゐる。従って大神様は人間は云ふに及ばず一切の生物の生命力 を主宰せられる尊い大神様である。故に古人はその御種について、「これを頂いて帰 り時に従ってまけば早稲でも晩稲でも糯でも粳でも願望のものが出来る。然かのみな らず麦でも大豆でも小豆でも出来る。まことに不可思議な事である」と感嘆してゐる が、田植後には農家の人達の豊穣祈願のお参りが盛んであり、十二月三日の諸手船( もろたぶね)神事は一つに「いやほのまつり」ともいひ、豊穣感謝の意味もあってこ れまた一般の参拝が頗る多い。

世界的文豪小泉八雲(ラフカディオ・ハ-ン)はその紀行文の一節に初夏の田園風景 を叙し、美保神社の神札(世にせきふだと申す)が稲田に立てつらねられて居る状を 白羽の矢のやうであると感心し青々とした田の中に白い花が点々と咲いたやうである ともいひ、この白羽の矢の立って居る処では蛭が繁殖しないし飢ゑた鳥も害をしない と書いてゐる。これは豊作守護のおかげを端的に言ひ表はしてゐるものである。

沿革

さて當美保関は前に述べたやうに大神様の御神蹟地であるばかりでなく、所造天下大 神とたたへまつる大国主神がその神業の御協力の神少彦名命をお迎へになった所であ り、又その地理的位置は島根半島の東端出雲国の関門で、北は隠岐、竹島、欝陵島を 経て朝鮮に至り、東は神蹟地、地の御前、沖の御前島を経て北陸(越の国)、西は九 州に通ずる日本海航路の要衝を占め、更に南は古書に傳へる国引由縁の地弓ケ浜、大 山に接し、上代の政治文化経済の中心であったと考へられる。現に考古学上の遺跡や 遺物によってもこれを窺ふことが出来る。かやうな訳で當神社は非常に古く此所に御 鎮座になり奈良時代巳に世に著はれ、更に延喜式内社に列せられ、後醍醐天皇は隠岐 御遷幸の砌り神前に官軍勝利、王道再興を御祈願になったと傳へるが、其後戦乱の世 に軍事上、経済上の理由から群雄の狙ふところとなり、遂に元亀元年、御本殿以下諸 殿宇を始めとして市街悉く兵火のため烏有に皈し、吉川廣家これを再興し日本海航路 の発達と共に上下の崇敬を加へ明治十八年には国幣中社御列格の御沙汰を拝し、更に 明治二十一年には叡慮を以て御剣一口を御下賜あらせられた。

文化財

現在の御本殿は文化十年の造營であって、大社造の二殿連棟の特殊な形式で、世に美保造又は比翼大社造等と申し国の重要文化財に指定されてゐる。御本殿のかかる形式 は文書によると天正年間にその痕跡が窺はれるが。現在の整備せられた構造は文禄五 年吉川廣家が朝鮮にあって立願のため御造營をした時まで遡ることが出来る。拝殿以 下は昭和三年の新營である。當神社の御祭神は鳴物を好ませ給ふと廣く信ぜられて種 々の楽器の奉納品が多く、そのうちの八四六点は美保神社奉納鳴物として、又諸手船 神事に用ゐる諸手船二雙及び社蔵のそりこ舟一雙は古代船舶の遺型を存するものとし て共に国の重要有形民俗文化財に指定され又隠岐、中海沿岸で漁業に使用せられたト モド船及び沖縄のサバニ-は共に県の有形民俗文化財に更に社蔵の古筆手鑑は県の有 形文化財に指定されゐる。

末社・其他
◎本殿、装束の間に奉齋する末社
名稱       祭神
大后社      神屋楯比売命、沼河比売命
合祀姫子社    媛蹈鞴五十鈴媛命、五十鈴依媛命
合祀神使社    稻脊脛
○境内に奉齋する末社
若宮社      天日方奇日方命、
合祀今宮社    政清靈
合祀秘社     神号不詳
宮御前社     埴山姫命
合祀宮荒神社   奧津比賣命、土之御祖神、奧津彦命
合祀船靈社    天鳥船神
合祀稻荷社    倉稲魂命
恵美須社     事代主命
随身       豊磐間門命、櫛磐間門命
御靈石
○境外に奉齋する末社
沖之御前     事代主命、活玉依媛命
地之御前     事代主命、活玉依媛命
客人社      大国主命
合祀幸魂社    大物主命
天王社      三穗津姫命
地主社      事代主命、或は御穗須須美命と傳ふ
久具谷社     国津荒魂神、多邇具久命
客社       建御名方命
合祀切木社    久久能智神

境内・社叢

  
一の鳥居・二の鳥居                 社叢


社号標・ニの鳥居

  
鳥居奥の狛犬

  
手水舎                       廻船御用水

  
参道                        収蔵庫 ぼやけて見える不思議な明かり取りだ。

  
廻廊付随身門                    随身門

  
拝殿・美保造り本殿

  
境内社 左手 右手

地名・地誌

地 図

周辺情報

関の五本松 美保関灯台

  


灯台下 日本海が眺められる

  
灯台手前に鳥居                   扁額「沖之御前・地之御前」

沖之御前とは隠岐の島のこと。祠は見当たらないが隠岐が御神体だろうか。

青石畳通り(あおいしだたみどおり)

松江市美保関町美保関にある天然石を敷き詰めた通りである。雨に濡れると石が青く光るため青石畳通りと呼ばれている。恵比寿様こと事代主命の総本社として知られる美保神社から、平安時代の仏像5体(重要文化財)を有する仏谷寺までを結ぶ500メートルほどの参道である。途中には国の登録有形文化財の旅館美保館や旧家、資料館などが並び、往時の面影が色濃く残っている。

美保関は古来より日鮮貿易の拠点として栄え、江戸時代から大正時代にかけては、北前船航路の中継基地として重要な港湾であった。またこの北前船の時代には、西日本でも有数の歓楽街としても栄え、多くの遊郭が軒を連ね、人口の四分の一を遊女が占めた時代もあった。このような時代背景の中、狭い土地の中で行き交う人や大八車などのために、古くから天然石を敷き詰められていった。現在も観光名所として訪れる人は多い。

参 考


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