式内 和奈美神社

      2017/01/20

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概 要

社号 式内社 但馬国養父郡 和奈美神社
読み:古 ワナミ 現 わなみ
江戸時代は「網引明神」と称していた
所在地 兵庫県養父市八鹿町下網場156
旧地名 但馬国養父郡遠佐郷和奈美村
御祭神 大己貴命(おおなむち のみこと) 天湯河板挙命(あめのゆがわたな のみこと)
例祭日 10月15日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
養父郡(ヤフ・やぶ):30座(大3座・小27座)

近代社格制度 旧村社

創建      年代不詳(『国司文書 但馬故事記』人皇十一代垂仁天皇二十三年冬十月朔)
本殿様式   流造 柿葺

境内摂社(祭神)

一口メモ

国道312号線と旧9号線が三差路になっている宮越交差点の北側に、ガソリンスタンドがあったころは目立たなかったが、広いアスファルトの駐車スペースがあり、その北側の小丘に境内があり、鳥居が建っている。

歴史・由緒等

『国司文書 但馬故事記』

人皇十一代垂仁天皇十年夏六月
気多県主・当芸利彦命を以って、夜夫県主と為す。母は伊許波夜別命(イコハヤワケノミコト)の女(ムスメ)・伊曾志毘売命(イソシビメノミコト)なり。
天皇、狭穂彦命の妹・狭穂姫命(またの名は佐比遅比売命)を娶り、誉津別命(ホムツワケノミコト)を生み給う。
誉津別命は、八握の鬚髥(顎髭と頬髭)生え、年三十に及び、猶泣き語り給わず(なお泣いてばかりで語ることもできない)。天皇これを見て、大いに憂い給う。

二十三年秋九月朔(ついたち)
群卿に詔して、曰(モウ)し給う。
「誉津別命生まれて年三十、鬚髥八握なすに、猶泣くこと児の如く、常に言わず。何の故ぞ。有司(つかさつかさ)に因りて議れ」と。

冬十月朔
天皇大殿の前に立ち給う。誉津別王これに侍(サブ)る。時に鳴く鵠(クグヒ)有りて大空を渡る。
誉津別王 鵠を観て曰く、「これ何者ぞや」と。
故(か)れ天皇すなわち王子の鵠を観て、始めて得言(あぎと)うことを知しめして喜び給う。
左右に詔して曰(もう)し給う。
「誰か克(よ)く、この鳥を捕えて献(タテマツ)らんや」と。
これに鳥取造(トトリノミヤツコ)の祖・天湯河板挙(アマユカハタナ)命(一に山辺木[帝鳥]命)奏して曰く、
「臣必ず捕えて献らん」と。
天皇すなわち天湯河板挙命に勅して曰し給う。
「汝 この鳥を献らば、必ず敦く賞せん」と。

天湯河板挙命は遠く鵠の飛びゆきし方を望みて追い、木ノ国(紀の国)に至り、針間(播磨)を経て、また追い、稲羽(因幡)国を越え、多遅麻(但馬)国・丹波国に到り、東の方を追い廻り、近ツ淡海(近江)国に至り、すなわち三野(美濃)国を越え、尾針(尾張)国より、科野(信濃)国に追い、高志(越)国を経て、丹波国を越え、ついに多遅麻国に追い到り、和那美水河に於いて網を張り、その鳥を捕え、これを献上す。
故れ其の水門を名づけて「和那美ノ水門」と云う。
天皇大いに喜び給い、これを賞し、姓(カバネ)鳥取部連(トトリベノムラジ)を賜い、諸国に令して、鳥取部を定め、これを天湯河板挙命に賜う。

出雲の宇夜江(現島根県松江市東出雲町揖屋)、稲羽の鳥取(現鳥取市)、丹波の鳥取(現京都府京丹後市弥栄町鳥取)、古志の鳥取、科野・三野・針間・木国の鳥取の鳥取部等これなり。
天湯河板挙命は夜夫県和那美神社に鎮座す(式内 和那美神社:現養父市八鹿町下網場)。

註 この地は古来、鳥取部の民の住む所であった。天湯川田奈命の「湯」とは鉄や銅の溶解して流れる状態をさし、鳥取部は金属精錬に関わったと推定されている。

天湯河板挙命とクグイにまつわる神社は、但馬では豊岡市の式内久久比神社、京丹後市の式内網野神社とこの和奈美神社、他には鳥取や和泉(大阪府)などにも残っている。

境内・社叢

867  869
鳥居

870  871

本殿覆屋

地名・地誌

下網場(なんば)

『国司文書 但馬郷名記』(975)

遠佐オサ

遠佐郷は、曰佐オサ氏在住の地なり。故に曰佐神社あり。曰佐氏の祖・紀臣命を祀る。

和奈美村・朝倉・保奈麻村・国棺クノギ村*(省略)

*国棺は今の国木

和奈美村

今の下網場

下網場は円山川に養父郡を流れる大川の八木川が注ぎ、円山川沿いに並行する西へ折れて鳥取へ向かう山陰道と湯島街道が分岐する交通の要衝に位置する。山陰道と湯島道が分かれる交通の要衝である。生野義挙でも平野国臣、横田友次郎は、駕篭二丁を雇い、城崎へ赴くために上網場を通ったところを豊岡藩兵と遭遇してしまった。慌てた平野たちは駕篭を上網場村旅籠京屋に着けさせて、中に客を装って入っていったが、豊岡藩兵により捕縛された。翌年の1月5日には平野、横田は姫路に護送され、11日には京の六角獄へ移された。元治元年(1864年)7月20日、禁門の変がおこり、その騒動のなかで平野、横田は斬首された。平野国臣37歳、横田友次郎31歳であった。

地 図

兵庫県養父市八鹿町下網場156

交通アクセス・周辺情報

参 考

但馬の神社と歴史三部作

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