郷社 伊福部神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社号 但馬国出石郡 伊福部神社
式内社 大生部兵主神社論社
読み:いふくべ
所在地 兵庫県出石郡出石町中村809
旧地名 但馬国出石郡埴野郷
御祭神 素盞嗚尊(スサノオ)
配祀 天香山命(アメノカグヤマ)、伊福部宿袮命(イフクベノスクネ)
例祭日

社格等

近代社格制度 旧郷社
創建     天平19年(747年)
本殿様式   入母屋造

境内摂社(祭神)

愛宕神社、福徳稲荷神社、天満神社

一口メモ

敬老の日です。 「但馬乃国伝説」作成のために、国府・中筋から出石郡の神社をまわってきた。 斉藤隆夫記念館「静思堂」の前に鎮座する古社です。出石町中村は、縮軍演説で有名な斉藤隆夫氏が生まれたところで、静思堂が建てられている。その目の前に伊福部神社が建っている。 なかなか格式のある古社だ。伊福部とは、製鉄のふいごを吹く部で、近くに鍛冶屋という地名があり、製鉄に関係した部民が生活していたのだろう。 日高町にもかつては伊福村(いまの鶴岡)があったし、気多は鉱山が早くから発見されていた土地だから、かつてこの辺りの川から砂鉄が採れたのかも知れない。

また丹後加悦に抜ける道筋で、日本海に抜けて丹後に、そして朝鮮半島につながる。

歴史・由緒等

由 緒

創立年月不詳
一に天平19年伊福部連其祖天香山命を祀るという。
近世、五師宮とも式内大生部兵主神社とも伝えたり。其の式内社となす説は、特選神名牒の説と異なれり。
江戸時代田畑の寄進ありて高10石を有せしかば経済的基礎も立ちたりき。天保10年12月社殿炎上し安政2年本殿を造営せり。明治6年(1873)10月村社に列し大正10年3月郷社に昇格せり

-「兵庫県神社庁」-

伊福部神社御由緒 当社は素盞嗚命、天香山命、伊福部宿弥命を奉祀す。創立年度不詳なれど天平19年伊福部連其祖天香山命を祀ると。又成務天皇4年2月國造船穂足尼素盞嗚命を祀る大生部兵主神社を弘原庄中村に鎮座し之を大生部神社と崇めた。「日本書紀」天正4年出石領主山名家より田畑三町歩の黒印を受く。又江戸時代氏子より田の寄進あり石高十石を有すも天保4年社殿炎上安政2年本殿再建にあたり出石藩主仙石讃岐守より寄進あり現在の社殿が造営された。

「社頭掲示板」

『国司文書 但馬故事記』(第五巻 出石郡故事記)に、
第五十代柏原天皇延暦三年夏六月、
佐々貴山君波佐麻ををもって、出石郡司とし、
伊福部宿祢弘をもって、出石主政となし、
葛井宿祢比遅をもって、出石主帳となす。

佐々貴山君波佐麻は、その祖・佐々貴山君を射阪丘に祀り(式内 佐々伎神社:豊岡市但東町佐々木)、
伊福部宿祢弘は、その祖・天香久山命を出石丘に祀る。(伊福部神社:豊岡市出石町中村)、
葛井宿祢比遅は、その祖・味散(みさ)君を藤ケ森に祀る(式内 比遅神社:豊岡市但東町口藤)。

『国司文書 但馬郷名抄』
大生部村
大生部兵主神社あり。大生部在住の地なり。高橋郷において職田を賜る。この地を大生部村という。故に兵主神社あり。大生部大兵主神社と称し祀る。(今の豊岡市但東町薬王寺)
*中村は当時は出石郷伊福部村と呼ばれていた。

どうして当社が式内大生部兵主神社の論社となっているのだろう。社頭掲示板によれば、近世(江戸時代)頃、薬王寺の式内大生部兵主神社を当社に勧請して、合祀したのではないだろうか。

『校補但馬考』桜井勉は、

延喜式ニ大生部兵主神社トアルヤ、コレナラン、コレモ、日槍ノ子孫ト伝ヘリ、今ノ出石ノ城西中村ニアリ。

これをもって式内社 大生部兵主神社の論社のひとつとされているのだろうか。祭神をみても天日槍もしくはその子孫と、何らつながりはない。桜井勉氏は天日槍=鉄=伊福部だから天日槍にゆかりがあるものとするのは勝手な憶測にすぎない。天平19年伊福部連が其の祖・天香山命を出石丘に祀ったのが最初で、神社は当初の社地から移転した形跡はないので、御出石神社からここは出石郷で、のち埴野郷であるから、御出石神社から伊福部神社裏手の山を出石丘と呼んでいたのだろう。または、
「イフクベ」と大生部の読み「オオフベ(おおうべ)だが、「オオイクベ」とも読めるので同一視したのだろうか。

伊福部宿祢弘が亡くなり、その麓に今の伊福部神社に伊福部宿袮命として祀り、江戸時代におそらく出石城主が武神であるスサノオの大生部兵主神社を城に近い当社に勧請し、スサノオが主祭神となったのではないかと思うのである。

延喜式神名帳 大生部兵主神社には論社が4社ある。

大生部兵主神社 兵庫県豊岡市奥野1
大生部兵主神社 兵庫県豊岡市但東町薬王寺字宮内848
*伊福部神社 兵庫県豊岡市出石町中村809
穴見郷戸主大生部兵主神社 兵庫県豊岡市三宅字大森47
有庫神社 兵庫県豊岡市市場は、大生部兵主神社 兵庫県豊岡市奥野1が江戸時代に有庫大明神と称されていたことから由来すると思われるが、明治に奥野と市場に分村し、その分社であろう。

『国司文書 但馬故事記』に最初の大生部兵主神社が記載されているものには、
人皇四十代天武天皇十二年(683年)冬十月、三宅吉士神床は姓(かばね)連を賜る。
これより先、夏閏(うるう)四月、三宅吉士神床は勅を奉じ、子弟豪族を集め、兵馬器械を具え、陣法博士・大生部了(おおふべさとる)を招き、武事を講習さす。かつ兵庫(やぐら)を高橋村に設け、兵器を蔵(おさ)む。大生部は大兵主神を兵庫の側に祀る。(式内 大生部兵主神社:豊岡市但東町薬王寺)
大兵主神は、素戔嗚尊(すさのお)・甕槌(かめづち)命・経津主命(ふつぬし)・宇麻志摩遅(うましまち)・天忍日命(あめのおしひ)なり。

これ以外に奥野にも中村にも遷座したという記載はない。
鳥取市の因幡国一宮宇部神社も古くは伊福部連其祖天香山命を祀ると云えているので関連があるかも知れない。

境内・社叢

  
社叢                        鳥居

  
境内石碑には「大生部神社」             手水舎

  
狛犬

  
拝殿・本殿                本殿


境内社 稲荷神社

地名・地誌

伊福部とは、製鉄(鍛冶)に関わった部のこと。

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考

但馬の神社と歴史三部作

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