式内 楯縫神社(養父)

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社 号 式内社 但馬国養父郡 楯縫神社
読み: 古 タテヌヒ、現 たてぬい
江戸時代は「妙見宮」と称していた
所在地 兵庫県養父市建屋字宮山839
旧地名 但馬国養父郡遠屋郷(建屋郷)
御祭神 彦狹知命(ひこさしり のみこと)
例祭日 10月12日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
養父郡(ヤフ・やぶ):30座(大3座・小27座)

近代社格制度 旧村社

創建     伝:持統天皇三年(689)
本殿様式   流造 銅瓦葺

境内摂末社(祭神)

なし。大きな神社にも関わらず境内社が皆無な例は珍しい。

一口メモ

但馬国式内社:131座(式内神社数115)*1の最後に残っていた式内社である。県道70号線を建屋へ。旧道をしばらく行くと左手に大きな社号標がある。

我が豊岡市日高町にも同名社があり、興味深い神社であった。祭神 彦狹知命は楯縫部の祖。『国司文書 但馬故事記』気多郡に、
盾縫首は、楯縫の祖、彦狭知命を盾縫丘に祀る。(今の豊岡市日高町多田谷 楯縫神社古社地)
丹波市春日町長王にも式内 楯縫神社 御祭神 多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)がある。

*1座 ご祭神を坐(座)という。延喜式神名帳は、出石神社八座・養父神社五座・伊伎佐神社三座のように1社に多数の御祭神が鎮座するので座で数えている。

歴史・由緒等

同社北にある齋神社[いつき]「天太玉命、手置帆負命」(兵庫県養父市長野字東山265)の摂社にも楯縫神社「彦狹知命」が鎮座し、式内 楯縫神社論社とする。

彦狹知命(ひこさしりのみこと)
林業・建築業・武器製造業の神
高皇産霊神の御子ともあるも、父は手置帆負命。
楯縫部の祖

由 緒
持統天皇3年(689)の創立と伝えられ、昔は妙見宮と称していた。

永禄6年(1563)、明暦3年(1657)に本殿を造立。明治2年(1869)、楯縫神社と改称した。

-「兵庫県神社庁」-

持統天皇3年(689)創建
永禄六年(1563)、明暦三年(1657)に造営
明治二年、楯縫神社と改称
明治六年十月村社
大正四年造営

「延喜式神名帳」養父郡 楯縫神社が、現在の地名である兵庫県養父市建屋字宮山839となっている。
が、これは後に現在の楯縫神社の所在地を記載したのであろう。
当神社に近い斎神社(兵庫県養父市長野265)の境内摂社に楯縫神社がある。こちらも立派な社殿で但馬国養父郡の式内楯縫神社の論社になっている。
残念ながら先の台風で斎神社本殿は倒壊の被害にあったが、摂社楯縫神社は被害を免れた。当神社はその楯縫神社の本社であるという。

『国司文書 但馬神社系譜伝』第三巻 養父郡神社系譜伝(973)
糸井郷 楯縫神社
養父郡糸井村鎮座
祭神 彦狭知命
人皇42代持統天皇の巳丑三年秋八月、楯縫連吉彦これを祀る。
彦狭知命は、高皇産霊尊の御子なり。
人皇61代醍醐天皇の延長五年十二月、官社に列す。

糸井郷 楯縫神社とあり、遠屋郷(建屋)には、1社、杜内神社のみ記載がある。

『国司文書 但馬故事記』第三巻・養父郡故事記

人皇人皇5代孝昭天皇40年夏5月 大照彦命の子、中男真若命を以て、屋岡県主(のち養父郡)と為す。
中男真若命は、御出石県主、天波賀麻命の娘、大美毘売命を娶り、遠屋彦命を生む。中男真若命は遠屋宮に在す。
人皇6代孝安天皇50年秋7月 中男真若命の子、遠屋彦命を以て、屋岡県主と為す。

(遠屋郷が再び登場するのは、ずっと後)

人皇45代聖武天皇天平18年冬12月
先の帝・元正天皇は天下に、地方の荒地を開きなさいと、「三世一身の制」を定む。
しかし、三世続かなければ、公に返す決まりのため、開発する者は少なし。
今帝聖武天皇は、この制を改め、永く私領とする事も可能な制を定め給う。

これによって、高位高官をはじめ、伴造・国造らの旧族に至るまで、国守・郡司を辞め、その土地に住む。そして各々は私領を差し出し、租庸調の役を免れたいため、本籍の人を離してその耕作に従った。

軽の吾孫(あびこ)らは因幡国より、当国に来て、軽邑を開きました。軽邑部民(かるむらのかきべ)らは、のち改めて、軽部と云う。
軽の吾孫らは、大国主彦坐(ひこいます)命の4世孫、彦白髪命の末裔です。子孫は蔓延し集落をなしました。武屋・乙屋・滝屋などこれなり。(滝屋が養父市建屋と思われる)

『国司文書 但馬郷名記抄』に、
遠屋郷は遠屋彦命鎮座の地なり。遠屋彦命を祀る。
船谷・杜内・遠屋・長野・能座・須流峰

楯縫神社

人皇42代持統天皇秋7月 三宅宿祢・神床陣法博士・大生部了(おおいくべ・おおふのさとる)を率いて、夜夫郡更杵邑に来たり。(更杵村 今の朝来市和田山町寺内)
一国の壮丁*の四分の一を召集し、武事を講習す。

また、その地に兵庫(やぐら)を設け、大兵主神を祀り、これを更杵村大兵主神社(素戔嗚神・武甕槌神・経津主神・天忍日神・宇摩志麻遅神・凡そ五社)と申しまつる。(式内 更杵村大兵主神社:朝来市和田山町寺内)
三宅宿祢神床の子・博床は粟杵(更杵の誤記だろう)に留まり、大生部了の子・広とともに軍事をつかさどる。

また、兵器を造るため、
楯縫連吉彦を召し、楯を作らせ、
矢作連諸男を召し、矢弓を作らせ、
葦田首形名を召し、矛および刀剣を作らせました。
楯縫連吉彦は、その祖・彦狭知命(ひこさちのみこと)を兵庫の傍らに祀り、楯縫神社と申しまつりる。
矢作連諸男は、その祖・経津主命(ふつぬしのみこと)を兵庫の傍らに祀り、桐原神社と申しまつる。
葦田首形名は、その祖・天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を兵庫の傍らに祀り、葦田神社と申しまつる。
(三宅宿祢博床の子孫を糸井連と云う)

楯縫連吉彦は其の祖・彦狭知命を兵庫の側に祀り、楯縫神社と申しまつる
矢作連諸男は其の祖・経津主命を兵庫の側に祀り、桐原神社と申しまつる。
葦田首形名は其の祖・天目一箇命を兵庫の側に祀り、葦田神社と申しまつる。
(三宅宿祢博床の子孫を糸井連(イトイノムラジ)と云う)

その後、
人皇44代元正天皇の養老3年冬10月、機業拡張を為し、当郡の兵庫(軍団)を浅間村に遷し、健児所(こんでいどころ)を置く。
伊久刀首武雄を以って判官と為し、
大蔵宿祢散味を以って主典と為す。
伊久刀首武雄は、兵主神を浅倉に祀り、その祖・雷大臣命を赤坂丘に祀る。兵主神社(今の豊岡市日高町浅倉)・伊久刀神社(今の豊岡市日高町赤崎)これなり。
(中略)
人皇45代聖武天皇10年 健児所を廃す。

『国司文書 但馬故事記』をみると、兵庫が設けられれば、その側に兵主神社があり、近隣に楯縫・矢作・葦田神社等が建てられている。

のち兵庫(軍団)を浅間村に遷し、健児所(こんでいどころ)を置くとあり、建屋郷に兵庫(軍団)に関する形跡がない。

・現在、糸井郷(今の朝来市和田山町糸井地区)に楯縫神社・葦田神社はないが、更杵村大兵主神社、桐原神社は残っている。楯縫神社が養父郡の兵庫から遠い無関係な建屋に祀られることは不自然であること。

・『国司文書 但馬故事記』楯縫神社は糸井郷と記載していること
・昔は妙見宮と称していたが、明治2年(1869)、楯縫神社と改称
・『国司文書 但馬神社系譜伝』「夜父郡更杵村に兵庫を設け、大兵主神を祀り、これを更杵村大兵主神社と申しまつる。楯縫連吉彦は其の祖・彦狭知命を兵庫の側に祀り、楯縫神社と申しまつる」

立派な神社であることに変わりがないが、上記の通り、養父市建屋字宮山の当社は、延喜式で定められた養父郡 楯縫神社ではなかった可能性が高い。屋岡県主 遠屋彦命を祀る神社ではなかったか。

「但馬神社系譜伝」に式内社はもちろんのこと、各郡の主な神社はもれなく記載されているのに、当社の記載はないところから、江戸時代は「妙見宮」と称していたことからも、同神社は楯縫神社ではなく別名の社であった可能性が大きい。

おそらく可能性としては、日下部氏族の建屋氏である。
律令制が崩壊し、中世武家社会になると、日下部氏族の朝倉氏・八木氏・建屋氏・軽部氏・宿南氏などが養父郡を分知するようになる。
この頃にはすでに養父郡糸井郷にあった式内社楯縫神社は廃絶しており、勢力を持った建屋氏が楯縫神社を勧請し改めたのではと考えるがどうだろうか。

境内・社叢

  
旧道に社号標               宮川

  
神橋

  
鳥居                   鳥居扁額

   
入口狛犬

  
手水鉢                  割拝殿のような籠堂


境内

  
4.5mの大きな御神燈       文久元年


相撲土俵

  
社殿下の狛犬

  
拝殿                   本殿


本殿

地名・地誌

養父郡(ヤブ)
『倭名抄』 糸井、石禾(イサワ)、養父、軽部、大屋、三方、遠屋、養耆(今の八木)、浅間、遠佐(ヲサ)の10郷

遠屋郷 『校補 但馬考』 これ今の建屋郷なり。建と遠と文字似たる誤るをそのままカナを付けたるなり。

(註:似た例が朝来郡伊田(イダ)郷を伊由郷、出石郡安美(アミ)郷を穴見郷と誤記している)

建屋(たきのや)

養父郡遠屋郷
『国司文書別記 郷名記抄』
遠屋郷は遠屋彦命鎮座の地なり。遠屋彦命を祀る。
(註:杜内神社)

「建屋」は『国司文書 但馬故事記』編者 吾郷清彦氏は、「滝屋を後世建屋と改め、タキノヤと呼んだものであろう。」という。
夜父郡更杵邑(今の朝来市和田山町糸井)に兵庫を設け、大兵主神を祀り、兵庫更杵大兵主神社とし、その側に楯縫神社を祀るとあるが、養父郡遠屋郷にはどこにもないことから、彦白髮命を滝屋にも祀り滝屋神社が訛って楯縫神社となったのではないか、あるいは招聘したのではと考える。軽部の武屋・乙屋・滝屋等とある滝屋はこの奥宮があった地かも知れない。

盾縫(楯縫)

盾縫(たてぬい)とは、古代日本(古墳時代から律令時代)において、盾を作ること、または作る人を指した語である。表記は、楯縫、作盾者(『紀』)とも記す。
盾を作る部民は楯部(たてぬいべ)と称され、神代紀には、「彦狭知神(ひこさしりのかみ)を盾縫とす」とあるように、日本神話においても、盾を製作する神々が登場している(この他にも、大国主が白盾を作る記述が見られる)。その後、律令制下(9世紀)まで中央政権の管理下(造兵司)に置かれていた。
忌部の中に祭祀に用いる盾を作るものがいたと思われる点や前述の石上神宮に関わりのある刀工川上部(かわかみのとも)の中に楯部がいたなど、古墳期の盾縫は宗教と関わり深い。出雲国楯縫郡(タテヌヒ):9座(並小)の地名も、神事道具としての盾を製作していたことに由来する。(ウィキペディア)

(山名四天王・竹田城代)太田垣氏は、『日下部系図』によると、建屋太郎光村─石和田光忠─太田垣光保とあって、建屋・石和田・太田垣を同族としている。『但馬国大田文』には尊勝寺領養父郡建屋荘の下司建屋五郎大夫女子も、同新荘の地頭石和田又太郎光時も、ともに御家人として見えるから、大田垣氏もこの辺りを本拠とした建屋氏の庶流らしい。
山名氏の但馬制圧に協力したことから、宗家を凌いで強大となり、ついには垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名氏の四天王と呼ばれる隠然たる勢力にまで成長し、丹波・播磨への通路を扼する朝来郡竹田城を本拠とするに至った。

-「家紋World 地方別武将家一覧」播磨屋さん-を参考に加筆した。

石和田は石禾(イサワ)郷。

地 図

兵庫県養父市建屋宮山839

交通アクセス・周辺情報

参 考

但馬の神社と歴史三部作

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