府社 玉造稲荷神社

      2017/02/03

概 要

社 号 玉造稲荷神社
読み: たまつくりいなりじんじゃ
所在地 大阪市中央区玉造2-3-8
旧地名 摂津国東成郡
御祭神
主祭神 宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)=稲荷大神
配祀 下照姫命、稚日女命、月読命、軻偶突智命
<strong例祭日

社格等

式外社
近代社格制度  旧府社

創建     垂仁天皇18年、戦災により昭和29年(1954年)再建
本殿様式

境内摂末社(祭神)

厳嶋神社(市杵嶋姫神)
万慶稲荷神社・新山稲荷神社・胞衣塚大明神

一口メモ

大阪時代清水谷に住んでいたので、すぐ近くだった。当時神社に関心は高くなかったので、初めての参拝。江戸時代には伊勢参りの西の玄関口として出発点とされた神社。

歴史・由緒等

『神社公式サイト』http://www.inari.or.jp/

当神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ、用明天皇3年に改築。聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣を敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたところ、のちに枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったと記されています。

豊臣大坂城期には三の丸に位置し、大坂城の鎮守神として崇敬された。当時、神社付近には前田利家、宇喜多秀家、細川忠興、島津家久、鍋島勝茂など豊臣方の武家屋敷が軒を並べていた。

特に秀頼公、母・淀殿の崇敬は篤く、当時社領5百石を寄進され南玉造町(現在・大阪市天王寺区玉造本町)が朱印地となり、慶長8年(1603)には片桐且元、加藤嘉明に命じ天正年間に荒廃した社殿を再興し、その銘が入った鳥居も境内に現存する。また、同じく境内には秀頼公と母・淀殿を結ぶ胞衣(卵膜・胎盤など)を祀る胞衣塚大明神が鎮座している。

その後、天正4年の兵乱により本・末社、旧記等ことごとく亡くしましたが、慶長8年には
豊臣秀頼公により社殿、高殿(舞台)を建立。
元和元年の大坂落城を経て、元和5年には徳川幕府の大坂城代、内藤紀伊守を始め、氏子・崇敬者の寄進を以って再建。社名は豊津稲荷神社として豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の守護神」として崇敬されたことは今日に伝わっております。

しかし、文久3年11月の大坂大火(新町焼)を経て、明治4年氏子・崇敬者によりご造営。
国家管理時代の社格は府社となり、その後昭和20年6月1日の大東亜戦争(第二次世界大戦)の戦禍を受けましたが、戦後は新憲法のもと宗教法人(神社本庁)玉造稲荷神社となりました。

社殿は昭和29年10月15日にご遷座。昭和51年5月には、皇室より三笠宮寬仁親王殿下をお迎えし創祀二千年祭奉祝事業達成祈願祭を盛大に営み、平成元年6月創祀二千年祭を挙行し、分社・東雲稲荷神社を中央区上町1丁目に鎮座し現在に至っております。

協定旅館のルーツ 『浪花講』

江戸時代に街道、宿駅制度が整えられたことにより、人々にとって旅がとても身近なもの
となった。しかし、当時の旅は現在と違い安全性はまだまだ乏しかった。街道での事件、事故、旅籠屋での「ぼったくり」、「相部屋」等の不安をかかえながら旅人は伊勢参りへでた。
当時、大坂の玉造に拠点をおき、全国に行商していた唐弓弦師・松屋甚四郎とその手代・源助は、行商の経験から旅人に安全で信頼のおける旅を提供しようと文化元年(1804)に旅籠の組合である「浪花組」(世話人:松屋甚四郎 発起人:まつ屋源助 ※天保12年(1841)に「浪花講」と名を改める)をたちあげた。この浪花講が指定する優良旅籠屋や休憩所では、「旅人の賭け事・遊女を買う事・酒を飲んで騒ぐ事」等を禁止し、浪花講の看板を軒先に掲げることにより旅人への目印とし、不良旅籠屋等と見分けがつくようにした。更に、旅のガイドブックである『浪花講定宿帳』等を発行し、旅人は定宿帳に記載された街道を歩き、鑑札を宿で提示することにより安心して宿をとる事が出来た。伊勢参りの出発地である大坂・玉造で創業したこの組織は全国的に広がり、現在の協定旅館・ホテルのルーツにもなったのである。また、「浪花講」講元であった松屋甚四郎の創業地には現在、当神社の分社・東雲稲荷神社が建っている。(旧境内地付近(中央区上町1丁目)に再び遷座)

-『神社公式サイト』より-

境内・社叢

  

社頭                   鳥居


手水舎

  
狛犬

  
拝殿                   社殿(拝殿・本殿)

  

厳嶋神社

  
(左)新山稲荷神社 (右)万慶稲荷神社


胞衣塚大明神 秀頼公と母・淀殿を結ぶ胞衣(卵膜・胎盤など)を祀る

  
豊臣秀頼公奉納鳥居

慶長8年(1603年)に秀頼公より奉納され、400年の
歴史を刻む。
大阪での石製鳥居としては、四天王寺正門の鳥居と
共に古いといわれている。
阪神・淡路大震災により下半分が壊れ、現在は上半分が境内に置かれている。

伊勢迄歩講起点碑

昔、お伊勢参りには玉造稲荷神社に参り、道中安全の
祈願をして旅立ったといわれ、この旅を引き継いで始め
られた「初詣・伊勢迄歩講」(主催 大阪ユースホステル
協会)の出発点がこの石碑である。

側面に「是より神宮まで百七十キロ」とあり、裏面には
「勾玉の造(みやつこ)たちの頸飾り、菅の御笠にいざ
旅立たむ」と歌が刻まれている。


秀頼公銅像

豊臣秀頼は豊臣秀吉と淀殿との間の第2子として文禄2年(1593)8月3日に大坂城で誕生した。一般には勝気な母・淀殿に対して、情けないマザコン男というイメージを持たれている。けれども、実際の秀頼は「大兵にて御丈6尺5寸余り(約197cm)」(『明良洪範』)、「世に無き御太り」(『長澤聞書』)などと記されるように、超のつく巨体漢であったらしい。

だからといって立派な人物だったとはいえないが、その点についても、秀頼は天下人2世として幼少の頃からさまざまな教養を身につけ、帝王学を学んでいたから、『明良洪範』などは「カシコキ人ナリ、中々人ノ下知ナト請ヘキ様子ニアラス」(たいへん賢い人なので、他人の臣下となってその命令に従うような人物ではない)と記している。

秀頼は、関ヶ原合戦後(慶長5年(1600))、摂津・河内・和泉3カ国を領する65万石余の1大名に転落したといわれる。けれどこれまた疑問がある。

史料が乏しいため、秀頼所領の全貌を復元することは難しいが、わずかに残された史料からでも、秀頼の領地が摂・河・泉をはるかに越えて、山城・大和・近江・伊勢・美濃・丹波・備中・讃岐・伊予にまで広がっていたことが確認される。また、東は信濃の善光寺から西は出雲大社まで、秀頼は100ヶ所以上の寺社を復興したが、その際、現地の大名を奉行に任命している。

年始・歳末や端午・八朔・重陽などの節句には、全国各地の大名から秀頼に祝儀が届けられ、毎年年頭には、勅使以下、親王・門跡・公家が残らず大坂城に下向して秀頼に年賀の礼を述べた。これら全ての事象が、秀頼が決して1大名などではなかったことを証している。

実は、豊臣秀吉の代に武家の家格が公家のそれにならって定められ、豊臣家は摂関家となり、徳川家や前田家・毛利家など5大老の家は一段低い清華家に位置付けられた。この家格は徳川家康が将軍になって以降もいまだ有効で、秀頼は摂関家の当主であり、将来の関白の有力候補だったのである。

慶長3年(1598)8月18日に父秀吉が亡くなった際にその後継者として家督を継いだ秀頼はわずか6歳に過ぎず、慶長19年・20年(1614・1615)に勃発した大阪冬の陣・夏の陣に敗れ、母淀殿とともに大坂城の山里曲輪で非業の最期を遂げた。

秀頼の22年間の短い生涯は、政権簒奪の野望をむきだしにする徳川家康とのせめぎ合いに終始した感がある。結果として、秀頼は敗者となったが、秀頼が関白の有力候補として大いに将来を嘱望される存在であったことは紛れもない事実で、多くの民衆から支持され、徳川幕府に対峙する一方の雄として、格別の権威をもって大坂城に君臨した。

(当神社発行:『豊臣秀頼公』 大阪城天守閣 研究主幹 北川 央氏 寄稿文より抜粋)

この秀頼公ゆかりの地である当神社に現・大阪城築城80周年の節目である平成23年(2011)、篤志家の方々の協力のもと「豊臣秀頼公銅像」が10月13日に除幕竣工された。また銅像は、文化勲章受章・日本芸術院会員の中村晋也氏が当時の史料を基に制作された。『神社公式サイト』

四天王寺再興や大阪市内の寺社仏閣寄進に秀頼の名を多数見かけることができる。

地名・地誌

玉造(たまつくり)

現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもので、一帯は古代、勾玉などを作っていた玉造部の居住地であったという伝承がある。

地 図

大阪市中央区玉造2-3-8

交通アクセス・周辺情報

JR・地下鉄 玉造、JR森ノ宮・地下鉄から西へ約500m

参 考

 - 大阪市 ,