山神神社(式内 夜伎村坐山神社)

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社 号 山神神社
式内社 但馬国養父郡 夜伎村坐山神社
読み:古 ヤキムラ 現 やまのかみ
所在地 兵庫県養父市八鹿町八木1182-1
旧地名 但馬国養父郡養耆(八木)郷
御祭神 伊弉冉命(いざなみのみこと) 速玉命(はやたま-) 事解之男命(ことさかのお-) 忍穂耳之尊(おしほみみ-) 瓊々杵之尊(ににぎ-)
※命・尊はミコト。

例祭日 例祭 10月15日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
養父郡(ヤフ・やぶ):30座(大3座・小27座)

近代社格制度 旧村社
創建     不詳(『国司文書 但馬故事記』に天平二年(730年))
本殿様式   入母屋造柿葺

境内摂社(祭神)

若宮神社 社殿の左右か(不明)・稲荷神社(参道)

一口メモ

国道9号線を鳥取方面へ国道北側。竹田城、出石城、豊岡城と並ぶ但馬の4大城郭八木氏の八木城趾の麓に鎮座する。参道は国道からまっすぐ延びているが、八木城登山口とある今滝口交差点に入り、すぐ旧道を左折すれば車で境内まで行くことができる。神社は古い街道沿いにあるので、かつての往来や町の風情を楽しむのも神社めぐりの味わいである。

鳥居横には「クマに注意」と立て札がある。最近ではよく見かける看板だが、ここの境内は道に接して人家も近くそんなに山奥ではない。人家の近くまで熊が出るのだろうか。神社参りも物騒になったものだ。

山神社といえば、日高町に名神大 山神社(豊岡市日高町山宮)があり、別の資料では大山祇命とあることからも関係あるとすれば夜伎村に座(いま)す山神社というのが延喜式の記述なので、名神大 山神社と区別したと考えられ、名神大 山神社から分祀されたと考えれられ、とすれば気多郡の名神大 山神社を祀った人物と関係しているのだろうかと考えていた。

歴史・由緒等

 

『国司文書 但馬故事記』第一巻 気多郡故事記に、

人皇35代舒明天皇の三年秋八月、垂仁天皇の皇子・五十日帯彦命の裔(すえ)・山公峯男を以って、多遅麻国造と為す。
山部を掌る山公峯男は、その祖・五十日帯彦命を太多邑に祀り、山宮と称え祀る。

『国司文書 但馬故事記』第三巻 養父郡故事記に、

人皇45代聖武天皇の天平二年春三月、多遅麻国造山公峯男の裔・山公樽男を以って、夜父郡司と為し、
杜公芳男を以って、主政と為し、
吉井宿祢幕里を以って、主張と為す。
山公樽男は其の祖・五十日足彦命を養耆邑に祈り、夜伎坐山神社と申しまつり、
杜公樽男は其の祖・大確命を建野屋邑に祀り、杜内神社と申しまつり、
吉井宿祢幕里は其の祖・高麗国人伊利須使主麻弖臣を養耆邑に祀り、井上神社と申しまつる。

とあるから、やはり豊岡市日高町山宮の名神大 山神社とつながりがある。
多遅麻国造山公峯男が山宮(名神大 山神社:豊岡市日高町山宮)を祀ったのに倣い、山公峯男の末裔である山公樽男は、その祖・五十日足彦命を養耆邑に祈り、山神社と区別するため夜伎村坐山神社(ヤギムラニイマスヤマジンジャ)としたのであろう。

速玉命(はやたま のみこと)

因みに速玉命は、速玉之男神とも書き、『日本書紀』の神話に登場する唾の神。絶命して黄泉国へ去った伊奘冉(イザナミ)を連れ戻しにいった伊奘諾は,見ないでくれといわれたイザナミを見てしまい,喧嘩して妻と別れることになったが,その別れ際に唾を吐いた。その唾を吐く神をハヤタマノオと呼び,(両神の関係を)掃う神を泉津事解之男と呼ぶ,とある。この説明に通じる話には,失った釣り針を求めて海宮へいった山幸が,口に含んだ首飾りの玉とともに唾を容器の中に吐き入れると,玉は容器から離れなくなったと語る『古事記』の海幸,山幸の神話がある。これらは,唾を吐くことが契約を強固にするという発想を反映するものと考えられている。誓約の際に唾,爪などを相手に渡す習俗が海外にあることが知られているが,唾がわざわざハヤタマノオという名を与えられているのは,日本のこの習俗が強固だったことを示すものか。
(佐佐木隆)

境内・社叢

  
鳥居から社殿と右手の参籠所まで斜めに参道が延びている。

  
本殿覆屋 左右に境内社が対に並ぶ         本殿


境内は手入れがされており、相撲の土俵がよく残されていた。いまでもお祭りで子ども相撲を行っているのだろうか。

地名・地誌

八木

『国司文書別記 郷名記抄』
夜伎郷(今は養耆郷と書す)

夜伎郷は焼金貢進(コウシン)の地なり。故に焼郷と名づく。のち焼くを忌み、夜伎と改む。夜伎村坐山神社あり。
夜伎村・屯倉村・吉井村・萬久里・志貴・熊野・宮代・織崎(省略)

『校補 但馬考』
養耆(やぎ・八木)郷

太田文には、村数11、今分かれて両庄とす。
高柳 市場 今瀧 三宅 大谷 萬久里
右六村、須田庄と云う。
尾崎 関ノ宮 吉井 中瀬 出合
右五村、羽山庄と云う。

中瀬金山

天正元年、八木但馬守豊信領地の時に、中瀬大日寺の傍らに砂金があり、因州(因幡)のものが来て、こして見て、その山に金あるを知り、これを掘る。
翌年掘り出す。これが金を得た始まりである。
天正五年、太閤がこの郡を征伐し、八木但馬守は防ぎ得ず、城を捨てて出奔した。太閤は別所某を八木城に置いて、奉行とした。同十年、別所を丹後由へ移し、これより生野(銀山)に属す。

八木はかつて市場と呼ばれ、山名四天王のひとりで養父郡を治下に置いた八木氏の城下町として栄えた。山神神社のすぐ南には三宅・八木・高柳にかけて並ぶように8つも寺院がある。今滝の八木氏菩提寺今瀧寺は真言宗で高地だが、いずれも真言宗ではないそうだ。太閤以降に城下に建立されたのかも知れない。

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考

但馬の神社と歴史三部作

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