青玉神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社 号 青玉神社
読み:あおたま
所在地 兵庫県多可郡多可町加美区鳥羽(とりま)735
旧地名 播磨国多可郡
御祭神 天戸間見命(あまのとまみのみこと、別名 天目一箇命)
合祀 大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)
例祭日 7月15日に近い日曜日

社格等

式外社
近代社格制度 旧村社

創建
本殿様式 流造 柿葺(こけらぶき)

境内摂末社(祭神)

本殿左 愛宕神社、山神社、稲荷神社 本殿右 熊野神社

文化財

青玉神社の大杉 県指定天然記念物
樹齢600~1,000年といわれる7本の杉の巨木がある。 さらに神殿の裏山には周囲12mで、地上8mのところから幹が2つに分かれた「夫婦杉」がそびえている。 また、神殿北側に「母乳の神木(ちちのき)」といわれるイチョウの超巨木があり、太い枝の至るところから大きな乳房に似た変形枝が連なっている。

一口メモ

国道427号線から西へ佐治神社までで、それから西へのルートは初めて。播州峠を超えると播磨に入り、道の駅R427かみの西側に立派な杉林と神社が目についたので引き返した。神社めぐりをしていると予期しない神社に巡りあったとき、その空気感を感じるときが喜びひとしおである。

アメノヒボコと伊和大神が但馬国と播磨国の境にある藤無山で三本ずつ黒葛を投げ、アメノヒボコは但馬へ、伊和大神は宍粟郡に播磨に落ちたのでそれぞれ治めることにした。宍粟市の伊和神社前にも道の駅があるが、当社の前にも道の駅があり、雰囲気がよく似ている。
道の駅駐車場に停めて杉林の参道を通って拝殿前に進む。

歴史・由緒等

「当社は播磨、丹波、但馬の境、三国岳に鍛冶業のご神徳をもって奉斎されていた。
やがて、南の山麓なるこの地に遷座せられ、土地を拓き、農を進め、加古川流域の農業の繁栄をもたらせた。
かつては加美町北部の総氏神と崇められた。奇しく妙なるご加護は、家運隆昌、家内安全、農耕などの殖産興業の祖神と広く知れ亘り、近隣はもとより道行く遠近の人々は交通安全をはじめ、所願成就を祈る参詣者が多数あります。昔、狩人が身の安全を願う湯立の神事は、今も例年七月十五日前後に行い、多くの参拝者が忌湯を浴びて無病息災を祈願している。勧請年月日は不詳なるも、明応二年、安政三年の二度も火災に罹り、現今の社殿は万延元年の造営によるものです。」

「『青玉さん』

この神社の西北に聳える三国獄の山頂に、播磨踊場という広い平坦な所があり、今も御手洗池という小池が残っている。そこに青玉さんが鎮座まし、斎祠されていたという。
青玉神社がこの地に創建された年代は定かではない。
境内の六本の多すぎは樹齢七・八百年以上かといわれ、又御神木(夫婦杉)は千年杉ともいわれている。これらの巨木から見て、神社が建てられたのは相当昔のことである。

『休み石』の謂われ
その昔、井ノ岡(猪の岡)という狩人が(のちに稲岡代明神として祀られている)、三国山に狩りに行った帰り道、背中が急に重くなり、ここ迄やっと辿りつき、動けなくなった。
この石に腰かけ、しばらく休んだ後、帰ろうと立ち上がれば背中が急に軽くなった。急いで村に帰り、この事を村の人に話した。村の長老がそれはきっと神様やと言った。それから村の人は口々に青玉さまを背負ってきたのだ。
ここに神様を祀れということだといって、その後この地を拓き清め青玉神社として祀ったそうである。」

「境内案内板」

「青玉神社 社史概要」

弥生時代、但馬の豪族天日鉾(天日槍)尊が、古代国造りの要衝……政治と鉱物資源開発のため、但馬・丹波・播磨の国境三国山頂の『踊り場』に祖神の天目一箇神を祀り、行政の証とした。千八百年以前(垂仁三年)二世紀頃と推定される。踊り場は、神々の『まほろば』であり、後に播磨・丹波の民がこの広場に集まり、踊りによって祖先の霊と一体になった。護摩焚きも行われた。

『御神霊』は奈良の都造営(七一〇年)ごろ、奥播磨賀眉の里の各集落の主神(氏神)としてオオタマ=青玉の森に祀られた。南の庄の大歳の神(オオトシタマ)も祀られた。御神木の『夫婦杉』(昭和四五年天然記念物指定)が千年余りの大昔を偲ばせる。『青玉さまは、三国峠を越えてこられた出雲の神様である』という伝承がある。事実、弥生文化(稲・銅・製鉄・紙などの技術)は三国峠を越えて奥播磨に伝わった。青玉神社は『鍛冶の神様』の全国的な元宮である。(室町時代、ご神体は他の各集落の神社に併神された)。

『瑞神門』は鎌倉様式で、一二五〇年代に建てられたと推定される(現礎石址)。
加美区豊部集落の南旧道の地名『桜』に一の鳥居が建てられた。
社格は九二七年(延長五年)に定められた延喜式社である(正一位青玉大明神)。
神社は応仁の乱の初期、一四九四年(明応二年二月)、原因不明で焼失した。
神社は再建され、戦国時代、江戸時代と繁栄し、たたら技術や紙の神・鍛冶の神様として多くの人々の信仰・参詣でにぎわった。
一八五六(安政三年九月十七日)再び焼失した。尊王攘夷の騒がしい時代であった。多くの氏子の莫大な浄財で再建されたのが、現在のお社である。お社は再建毎に拡張され、立派になった。天保年間の神社拡張時、神殿背後から出土した球壺二個(現当社の小宮に宝蔵)は、平安藤原期のものであり、神仏習合としては最古のものである。

八五九~八七七年(貞観年間)宮中で行われた『湯立神楽』が原型のまま残されているといわれる司祭の行事『湯立て祭り』は、中世以降現在に引き継がれ、毎年七月中旬、盛大に行われる。巫女が舞い、熊笹の葉で参拝者に湯をふり注ぐ。無病息災を願うこの信じは壮麗で、総てが神様と一体になれる時である。

霊樹『乳の木』に婦人が甘酒をお供えして祈ると、乳の出が良くなるとの言い伝えがある。
二〇〇七年吉日
文責・奉納 青玉神社氏子 龍岳

由 緒
創立年不詳。
初め、三国嶽の山頂に鎮座。のちに山麓に選座す。
明応2年(1493)、社殿焼失。
宝暦11年(1761)、社殿造営。
安政3年(1856)、社殿焼失。再度再建。
明治7年(1874)、村社に列せられる。

-「兵庫県神社庁」-

境内・社叢

  
社頭

  
両部鳥居                 杉の社号標


鳥居扁額


社頭掲示板

   
杉林に延びる参道             神橋

  
神池                   手水舎


境内案内板

   
狛犬

  
拝殿

  
『瑞神門跡』(現礎石址)           本殿覆屋

  
左境内社 愛宕神社、山神社、稲荷神社    左奥境内社


本殿右 熊野神社

   
御神木の『夫婦杉』

地名・地誌

鳥羽(とりま)
三国岳の頂上に鎮座し、後に現在地の村里へ遷座した「式内社天目一神社(あめのまひとつじんじゃ)」の祭場(まつりば)が「とりば」となり、「鳥羽」の文字が当てられ「とりま」と呼ばれるようになったといわれています。後に青玉神社と改称されました。

多可郡多可町
合併前は加美町
2005年11月1日、中町・加美町・八千代町の3町が合併し、多可町となったため消滅した。

地 図

交通アクセス・周辺情報

公共 JR加古川線「西脇市駅」より神姫バス「鳥羽上」「山寄上」行き、「鳥羽上バス停」下車北へ徒歩500m
車 国道427号にて道の駅「R427かみ」すぐ向かい側

参 考

「兵庫県神社庁」、他

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