二十二社 (上七社)・名神大  伏見稲荷大社

投稿者: kojiyama 投稿日:

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概 要

社 号 伏見稲荷大社 旧称は稲荷神社。
式内社 山城国紀伊郡 稲荷神社三座 式内社 山城国紀伊郡 御諸(ミモロ)神社
読み:ふしみいなりたいしゃ
所在地 京都市伏見区深草藪之内町68
旧地名 山城国紀伊郡
御祭神 稲荷大神(いなりのおおかみ、いなりだいしん)(宇迦之御魂大神と4柱の神)
・主祭神 宇迦之御魂大神 (うかのみたまのおおかみ)
・配神 佐田彦大神・大宮能売大神・田中大神・四大神 (しのおおかみ)

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
紀伊郡(キ) 8座(大3座・小5座)
式内社(名神大)
合祀 式内社
山城国紀伊郡 御諸神社 四大神
山城国紀伊郡 飛鳥田神社 一名柿本社 田中大神

中世社格制度 二十二社(上七社)
近代社格制度 旧官幣大社

創建     伝:和銅年間(708年-715年)
本殿様式   流造

境内摂社(祭神)

応仁の乱で焼失する前は稲荷山の山中にお社があったが、再建はされず現在は神蹟地として残っている。明治時代に親塚が建てられ、その周りに信者が奉納した様々な神名のついた塚が取り囲む形となっている。親塚の神名が本殿に祀られる五柱の神名とは異なるが古くからそういう名前で伝わっているとされ、理由は定かではない。

七神蹟地
一ノ峰(上之社神蹟) – 末広大神
二ノ峰(中之社神蹟) – 青木大神
三ノ峰(下之社神蹟) – 白菊大神
荒神峰(田中社神蹟) – 権太夫大神
間ノ峰(荷田社神蹟) – 伊勢大神
御膳谷遙拝所 – 往古に三ヶ峰に神供をした所と伝えられている
釼石(長者社神蹟) – 社殿の後ろに御神体の剱石があり長者社には加茂玉依姫(かもたまよりひめ)を祀る

摂末社

新池(熊鷹社) – 祭神:熊鷹大神
薬力社
傘杉社
清明社

文化財

本殿 五間社流造、檜皮葺き、明応3年(1494年)建立
御茶屋 後水尾上皇より下賜され、仙洞御所から移築

一口メモ

JR稲荷駅の東前。子供の頃に家族で1回、95年ころに商工会で伏見稲荷大社と西宮神社を初詣でお参りしたが、今回は十数年ぶりに参拝し全山をお参りした。
余りにも有名な神社なので、くわしく記すまでもないが、広大な稲荷山の社地にたくさんの社がある。

外国人観光客の人気が高く、平日でも多くの外国人が稲荷山を訪れている。
千本鳥居をはじめ、朱塗りの鳥居や無数の神社が並び、撮影をすれば膨大になり圧巻だ。デジカメではなくスマホで撮影。バッテリーが余裕があれば、もっと撮影できたのに残念だ。

歴史・由緒等

「お稲荷さん」は全国に30,000社あるといわれ、全国各地で老若男女を問わず親しまれている。その総本宮が伏見稲荷大社である。

旧称は稲荷神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。
全国に約4万社ある稲荷神社の総本社である。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)。

和銅年間(708 – 715年)(一説に和銅4年(711年)2月7日)に、伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つの峯にそれぞれの神を祀ったことに始まる。秦氏にゆかり深い神社であるが、秦氏来住以前の原信仰が基礎となったとされる。和銅以降秦氏が禰宜・祝として奉仕したが、吉田兼倶の『延喜式神名帳頭註』所引の『山城国風土記』逸文には秦氏が稲荷神を祀ることになった経緯が以下のように記されている。

秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)達の先祖である伊侶巨秦公は稲を多く持ち富裕であったが、稲を舂いて作った餅を的にすると、その餅が白鳥となって稲荷山に飛翔して子を産み社となった。伊侶巨秦公の子孫は先祖の過ちを認め、その社の木を抜いて家に植え寿命長久を祈った。

『延喜式神名帳』には「山城国紀伊郡 稲荷神社三座 並名神大 月次・新甞」と記載され、名神大社に列し月次・新甞の幣帛を受けた。

社家には学者が多く、国学者の荷田春満も当社の社家出身である。境内には荷田春満の旧宅が保存されており、隣設して荷田春満を祭神とする東丸神社(あずままろじんじゃ)がある。この神社は荷田春満の旧宅の一角に建てられているため、伏見稲荷大社の楼門内にあるが摂末社ではなく独立した神社であり、1903年に府社に列格されており、規模の割に高い社格となっている。学問の神として信仰されている。

応仁の乱の戦渦が去った15世紀後半には、神仏習合の下に伏見稲荷本願所に真言宗東寺の末寺の愛染寺が神宮寺として建立されたため、稲荷山では仏教系の稲荷として荼吉尼天も礼拝され[5]、また愛染寺が伏見稲荷大社の社殿造営や修復、勧進、出開帳を管理していた。しかし、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって1868年(慶応4年)に愛染寺や社内の仏殿、本殿内の仏像類は廃された。ただし、祭礼時の東寺神供だけは現在も残っている。

明治4年(1871年)には近代社格制度のもとで官幣大社に列格するとともに正式社名を「稲荷神社」とし「官幣大社稲荷神社」となったが、戦後昭和21年(1946年)に神社本庁とは独立した単立宗教法人となった。これは神社本庁が伊勢神宮を本宗とするのに対し大社側として別の見解を取ったためで、神社本庁との関係は良好である。宗教法人化とともに社名を「伏見稲荷大社」と改称したが、これは近代社格制度の廃止に伴い、そのままでは社名が単に「稲荷神社」となって、他の多くの稲荷神社と混同することを避けるためである。

稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅四年(711)2月初午の日に、なったと伝えられており、秦大津父とこの伊呂巨(具)との200年たらずの脈絡についてはほとんど不明です。しかし不明であるから全く関連はないとは言えないでしょう。深草の里が早くから開拓されて、人の住むところであったことは深草弥生遺跡に見ることができます。

ここへ秦氏族が住みつき、在地の小豪族として勢力を伸ばして、ついに秦大津父の輩出となったのですが、皇極天皇2年(643)11月のこと、当時の宮廷において権勢をほしいままにしていた蘇我入鹿が、政敵である聖徳太子の御子・山背大兄王を亡きものにせんと斑鳩に攻めた時、王の従臣たちは、深草屯倉に逃れられるようすすめたとあります。この「屯倉(みやけ)」とは、朝廷および皇族の直轄領のことで、その運営については、在地の豪族、深草屯倉の場合は秦氏族の勢力に期待するところが大きかったのであろうと考えられています。この頃の族長は誰であったかわかりませんが、大津父から伊呂巨(具)に至るちょうど中間に相当する時期に、深草の里に秦氏族の存在が予測できるのはたいへん興味深いことです。
-「神社公式ページ」-

『式内社調査報告』で、柴田實氏は、五十猛命、大屋姫、抓津姫、事八十神の四柱の神としている。これは式内社御諸神社のことのようである。

境内・社叢

  
大鳥居・楼門              拝殿*

   
本殿*                  本殿側面*

*(上写真 スマホのバッテリー切れで、撮影できず、神社公式サイトから暫定的にお借りしています。)

  
祭場 長者社、荷田社、猛尾社などが横に鎮座  千本鳥居
神社は狛犬であるが、稲荷神社はキツネが神使。オオカミの変じたものとされる。


奥社奉拝所

お山を遥拝するところで「奥の院」と称される
本殿の東方から千本鳥居をぬけたところにある
「命婦谷」と称されるところで、稲荷山三ケ峰が、この社殿の背後にある
1794年(皇紀2454)寛政6年
現在の社殿が建立される
1975年(皇紀2635)昭和50年
社殿を後方の現在の位置に移され、前に拝所が建立される

<おもかる石>
奉拝所の右側後にある一対の石灯篭
灯篭の前で願い事の成就可否を祈願して、石灯篭の空輪(頭)を持ち上げ、
そのときに感じる重さが、自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶うといわれる試し石


稲荷塚(稲荷山に数万カ所所在)

  
熊鷹社 (新池)

朱の玉垣の向こうに緑の山影を映す池は新池、谺ケ池(こだまがいけ)との別称があります。行方知れずになった人の居場所を探す時、池に向かって手を打ち、こだまが返ってきた方向に手がかりがつかめると云う言い伝えがあります。

池に突き出た石積みに拝所が設けられ、熊鷹大神の御塚が鎮まっています。

  

三徳社?            四ツ辻にある茶店に懐かしい光景があったので。バヤリースと三ツ矢サイダーが冷水に浸けられて販売されている。まさしく昔のまま止まっていて子供の頃にタイムスリップしたかのようだ。

ここで参道が二手に分かれる。右手は石段が登り、まっすぐへは緩やかなやや下りになっているので、そちらから進む。しばらくすると石段が続く。後から三ノ峰・二ノ峰・一ノ峰への右手からの方が楽な行程だったと思う。

  
大杉大神            眼力大神


御膳谷奉拝所

ここは御前谷とも記され、稲荷山三ヶ峰の北背後にあたり、往古はここに神饗殿(みあえどの)と御竈殿(みかまどの)があって三ヶ峰に、神供をした所と伝えられています。

三つの峰の渓谷がここに集まって一の峰、二の峰、三の峰を拝する要の所。

  

  
御剱社(長者社神蹟)劔石長者社

この神蹟は山上古図に釼石(雷石)と記されている処です。稲荷山の三つの峰と同じように、古くからの神祭りの場であったようです。
神蹟の左に焼刃の水と呼ぶ井戸があります。

  
薬力大神                 一ノ峰(上社神蹟)末広大神

ここは稲荷山の最高峰(標高233メートル)です。
ここを末広大神と崇める信仰がありますが、これは親塚を建てた以前からつづく信仰らしく、神蹟改修を示す親塚裏面に(明治10年6月、燈明講奉納・末広社)という刻字が見出せます。
二ノ峰(中社神蹟)

ここは青木大神と崇められています。


間ノ峰(荷田社神蹟)

ここは伊勢大神と崇められています。
神域入り口に建つ石鳥居は、奴祢鳥居(ぬねとりい)と称し、額束の両側に合掌状の破風扠首束(さすつか)をはめた特異な形をしています。


三ノ峰(下社神蹟)

白菊大神と崇められています。
明治20年代の半ばごろ、おそらく改修工事をしていた時に、ここから変形神獣鏡が出土しました。現在京都国立博物館に出陳されています。


御朱印

主な祭礼

初午大祭 (はつうまたいさい、2月初午の日 午前8時)
稲荷祭 (平安時代に起源を持つ祭りで4月20日最寄の日曜の「神幸祭」-5月3日の「還幸祭」まで氏子地域の御旅所に神輿が置かれる:2010年は16日間)
本宮祭 (もとみやさい、7月土用入り後の最初の日曜または祝日) – 前日の宵宮には境内の提灯や灯籠に一斉に灯を入れる万灯神事が行われる。
火焚祭 (ひたきさい、11月8日 午後1時) – 「おひたきまつり」とも言われる。社前に火を焚く神事。伏見稲荷では丁度初午に相対するものであるとしている[10]。
その他にも四季を通じて祭礼・神事が執り行われている。

地名・地誌

山城国紀伊郡
紀伊郡の名の通り、紀氏(朝臣)の拠点であったが、藤原氏の台頭などで、力を失っていき、配下であったろう秦氏がこの地の支配者となった。

地 図

交通アクセス・周辺情報

電車
・JR奈良線 稲荷駅下車 徒歩直ぐ (京都駅より5分)
・京阪本線 伏見稲荷駅下車 東へ徒歩5分

市バス
・南5系統 稲荷大社前下車 東へ徒歩7分

自動車

・名神高速道路 京都南インターから 約20分

・阪神高速道路 上鳥羽出口から 約10分

ホームページ 『神社公式サイト』

参 考

「伏見稲荷大社公式サイト」、『延喜式の調査』さん、他

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