和伎神社 (湧出宮) 式内 和伎坐天乃夫支売神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 和伎神社
読み わき
通称 湧出宮
読み わきでのみや
古くは湧出大明神、近世は湧出宮と呼ばれていた
延喜式神名帳 式内社 山城国相樂郡 和伎坐天乃夫支売神社 大 月次新嘗
読み わきにますあめのふきめ
所在地 京都府木津川市山城町平尾里屋敷54
御祭神 天乃夫岐売命(あめのふきめのみこと) 田凝姫命(たぎりひめのみこと) 市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
例祭日 10月16日 天下の奇祭「いごもり祭」2月15日~17日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
相樂郡 6座 大4座 小2座
式内社大

近代社格制度 旧郷社
創建       天平神護2年(766)5月7日
本殿様式    三間社流造檜皮葺(昭和50年 銅板葺きに改修)

境内摂末社(祭神)

右側 天神社・合祀殿(熊野社・市杵島社・大国主社)
左側 春日社・合祀殿(八幡社・日枝社・熱田社)
社殿裏 石造小祠3基、稲荷社
文化財

本殿・本殿棟札12枚 府登録有形文化財
湧出森 府文化財環境保全地区
湧出宮遺跡 境内一帯は、弥生中期の住居跡で、弥生式土器片が出土する。

一口メモ

JR奈良線棚倉駅の東側すぐ前に大きな森が見える。

歴史・由緒等

正式には和伎坐天乃夫岐売神社と称す。祭神を称徳天皇の天平神護2年(766)に、伊勢の国からこの地にお遷しした。*1
湧出宮の通称は、『この時、一夜にして森が湧き出し、四町八反(17,851㎡)余の神域と化したので、世人は御神徳を称えてこのように呼称した』との伝承による。

古来より天下の奇祭「いごもり祭」で世に知られる湧出宮は、JR奈良線棚倉駅前の鎮守の森(湧出森)に鎮座する古社である。(旧社格は「延喜式内社・郷社」)創建は今より1200年余り前の、称徳天皇の天平神護2年(766)に、伊勢国渡会郡五十鈴川の畔より、御祭人として此の地に勧請申し上げたと伝えられている。
社蔵の文書(和伎 座天乃夫伎賣大明神源縁録)によれば、御祭神天乃夫伎賣命とは、天照大神の御魂であると記されている。恐れ多く神秘なるが故にかく称し上げたとある。後に田凝姫命 、市杵島姫、瑞津姫命を同じく伊勢より勧請して併祀したとある。尚、この三女神は 、大神とスサノオの命との誓約によってお生まれになった御子である。(涌き出宮大明神社記)

大神を此の地に奉遷した処、此の辺は一夜にして森が涌きだし4町8反余りが、神域と化したので、世の人は恐しく、御神徳を称えて、「涌き出森」と呼称したと言い 伝えられている。山城の国祈雨神11社の1社として、昔から朝野の崇敬を集めてきた。清和天皇(859)や、宇多天皇(889)が奉幣使を立て、雨乞い祈願をされえたところ、霊験により降雨があったと記されている。本殿は社蔵の「堂社氏子僧遷宮記」よれば、現本殿は元禄5年(1692)の造営で、「三間社・流れ造り」で屋根には「千木・勝男木」置くとある。
それ以前には中世の戦火で度々焼失し、源頼朝や、後小松朝、後柏原朝の御世にも再建された。昭和50年には本殿の屋根が檜皮葺から銅板葺き変わり、現在の形になった。平成3年には氏子、崇敬者の浄財拠出により、神楽殿・社務所が全面改築新装された。
涌出森境内一帯は、弥生期の居住跡として弥生式土器・石器等が出土した。また、社務所改築前の発掘調査では、竪穴式住居跡も確認された。

『全国神社祭祀祭礼総合調査』 神社本庁 平成7年

*1 当社の御祭神は「天乃夫岐売命(あめのふきめのみこと)を伊勢の国からこの地にお遷しした」とあるが、伊勢をはじめ天乃夫岐売命という神は、他に例がない。

  • 天乃夫岐売尊とは天照大御神の荒魂の大神なり、恐れおおく神秘なる故にかく称えたという説
  • 素盞鳴尊(スサノヲ)の御子神・天葺根命(あめのふきねのみこと)とする説
  • 古事記で、イザナギ・イザナミの国生みのとき、4番目に生まれた天之吹男神(アメノフキオ)の配偶神とする説
  • 合祀されている田凝比売命(タゴリヒメ)・市杵島比売命(イチキシマヒメ)と同じ宗像三女神の一・湍津姫命(タギツヒメ)とする説…本来宗像三女神を祀るなら三女神を並べるはずなのに湍津姫命のみ名前が見当たらないため

上記祭神説はいずれも根拠薄弱といわざるを得ず、それよりも、古代の当地を統治していた氏族が齋き祀った祖神(国津神)、あるいは五穀豊穣を祈った神(水神か)とするのが妥当かもしれず、その意味では、夫岐売の“夫岐・フキ”を“吹き”とみて風の神、ひいては風雨を司る水神とする説が興味を引く。

いごもり祭(居籠祭・齋居祭)起源

1天下の奇祭「いごもり祭」の起源については諸説の伝承がある。崇神天皇の御代に、天皇の庶兄で、当地山城地方を任せられていた、武埴安彦命の軍が、大和朝廷軍と戦い敗北して安彦は非業の最期を遂げた。その後、数多の戦死者の霊が崇り、この辺りに悪疫が大流行して人々を悩ませた。村人達は齋みこもって悪疫退散の祈祷をし、かくして悪霊が鎮まった。これが、いごもり祭の起りと言われている。(日本書紀)
因に、木津川対岸の祝園神社でも、いごもり祭を齋行されている。伝説では、安彦が斬首されたとき、首は川を越えて祝園まで飛び、胴体は棚倉に残ったと言われている。
祝園神社では、安彦の首を型どった竹輪を祭に用い、涌出宮では胴体を型どった大松明を燃すのだ、との言い伝えもある。
2昔、鳴子川へ三上山から大蛇が出てきて、村人を困らせたので義勇の士がこれを退治したところ、首は祝園に飛び胴体は棚倉に残ったとの言い伝えもある。
3「いごもり祭」は、昔は「音無しの祭」と言われ、村中の人達は、家の中に居ごもって年乞の祈りが成就されるまで一切音を立てなかったという。
4現今では、「いごもり祭」は、室町期の農耕儀礼を伝える豊作祈願の祭と言われ、更に春を呼び幸せを招く、除厄招福諸願成就の祭として、大いに世人の注目と信仰を集めている。

境内・社叢

  
社叢(湧出の森)               一の鳥居・社号標

  
二の鳥居                   手水舎

  
神門                      拝殿

   
狛犬

  
幣殿・本殿                   本殿

  
左側 合祀殿(八幡社・日枝社・熱田社)     春日社

  
右側 合祀殿(熊野社・市杵島社・大国主社) 天神社  稲荷社

地名・地誌

地図

京都府木津川市山城町平尾里屋敷54

交通アクセス・周辺情報

参 考

「戸原のトップページ」さん、「延喜式の調査」さん

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