舞鶴市 官社(式内社) 旧村社 京都(丹後国)

式内 三宅神社(京都府舞鶴市北吸)

概 要

社 号 式内社 丹後国加佐郡 三宅神社
読み: みあけ・みやけ
江戸時代は「荒神」「北吸神社」
所在地 京都府舞鶴市北吸字糸212-5
旧地名 丹後国加佐郡余戸(あまるべ)郷? 加佐郡北吸村
主祭神 豊宇氣姫命(とようけひめ)
配祀神 {多遲麻毛理命|たぢまもりのみこと} (菓子の祖神)
白兎神(御本殿の守護神)
例祭日 11月3日

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
加佐郡(カサ):11座(大1座・小10座) 創建
古代社格制度 『延喜式神名帳』式内社
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳

境内摂社(祭神)

秋葉神社 稲荷神社 恵美須神社 吉備大神宮

一口メモ

西舞鶴上安の高田神社から三宅神社をめざす。国道27号を通りトンネルを抜けると、中舞鶴歩道橋交差点で国道は右に折れる。海上自衛隊舞鶴地方統監部や停泊中の自衛艦を横手に通り過ぎると上り坂になる。舞鶴市役所あたりは、国道が数回曲折するのでややこしい。案の定、三宅神社を行きすぎてしまい、ナビを見ると交差点から曲がらずに、直角に折れる西側に小さい参道がある。神社の前は歩行者専用道路になっていた。参拝用駐車場はあるのだろうか?石段が見えて神社は少し高い山腹にある。下からでも「三宅神社」と書かれた看板が見える。

歴史・由緒等

古くは三宅八幡宮、岩津森明神。河辺川左岸丘陵には16基の円墳からなる干田古墳群(後期)がある。

縁起

もう一つ西側の谷である現在の三宅団地にあった「三宝荒神」だったのだが、明治の神仏分離令によって「北吸神社」となり、さらに同十五年に「三宅神社」と改称したという。これは延喜式神名帳所載の三宅神社に比定したためで、今も石段下には「式内三宅神社」の石柱が立っている。祭礼の幟にもそう書かれている。
明治二十四年、元の北吸は軍用地(射撃場)になって立ち退かされた、全戸が糸谷(現在の北吸谷)や浜地区に移住した。元「三宅神社」も同時にここに移ったのであった。

本来の祭神は不明であろう。問題はこの神社が本当に式内社の三宅神社に当たるのかどうかという点であろうか。
ただ三宅そのものがよくわかっていないので、この社の比定の決着は当面はつきそうにもない。どの社もそれなりに正当性があるのだが、式内社は一社だけだろうから、今は言った者勝ちというところか。

式内・三宅神社は三宅郷の総鎮守であろうから、三宅郷との関わりから考えていくより方法はないと思われが、その三宅郷もわからない。郷がつくれるほどの人口がいたというなら後に余戸郷となるのは苦しくなる。

残欠に河辺坐三宅社とあり、これが後の式内社であろうから・現在の河辺八幡社がこれに当たるという説もある。「河辺坐」と限定されているところから逆に推測すれば三宅と名乗る社は他にもあったのではないかとも思われる。
「室尾山観音寺神名帳」には「従二位三宅明神」と「正三位三宅明神」の二社が書かれている。重複しているのではなく、少なくとも似たような神階をもつ同名の社が二社あったとも思われる。
『丹哥府志』は、
【三宅神社】(延喜式)
三宅神社今訛りて宮崎明神と称す、祭六月十八日

《丹後風土記残欠》
三宅郷

河辺坐三宅社
三宅郷は「本字前用」として、高橋郷と大内郷の間に書かれている。最後から二番目に余戸も書かれている。

《丹後旧事記・別名丹後細見録》
三宅神社。河辺中村。祭神=稲倉持命。

『舞鶴市内神社資料集』所収(京都府地誌)
北吸神社。社地東西六間南北九間面積五十四坪。村ノ西ニアリ豊宇気姫命ヲ祭ル相伝ヲ往古ハ儼然タル大社ナリシヲ何レノ頃カ衰微ニ就ク今本社傍近に字神子屋敷字宮ノ平等ノ地アリ蓋シ其遺址ナラン境内末社一宇アリ明治十五年十月三宅神社ト改称ス
(夏祭り)八月三日、(秋祭り)十一月三日、子供神輿が出る。今はなし。

『舞鶴市内神社資料集』所収(神社調査書)
一、神社所在地。京都府加佐郡新舞鶴町字北吸小字三宅谷鎮座。
二、社格神社名。無格社・三宅神社。
三、祭神。豊宇気姫命 多遅摩毛理
四、由緒創立時創立

『丹後史料叢書五』所収「丹後国式内神社取調書」
三宅神社
【考案記】北吸村是ナラン【道】同【姓録】三宅連新羅国王子天日桙命之後也【式考】天眞名井孝ニ公荘村ニアリ今村中ニ三社アリ其中ニ熊野若宮社イト古シ社伝記ニ麻呂子親王ノ臣等ヲシテ御造営アリシ由其後今ノ地ニ遷座云々)
(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志

『舞鶴市内神社資料集』所収(北吸邑旧事記一輯)

三宅神社私考
三宅神社が今から千年前の延喜格式にのせられている。その格式の内にのせられてゐるために式内社と呼ばれ、式内社である事はその神社が古くからあったと言ふ証拠になるので、どこの町でも村でも式内社の奪ひ合ひが多いのであらう。所が一千年の歳月を隔ててゐるために確実な証明を得る事は仲々難しい。又一、二の材料で決定しても後から証拠が出ると又換えねばならぬ様な事になり、又その決定の材料の確実さも充分に研究してかからねばならない。

現在問題になっている北吸の三宅神社が式内社でない。あれは全く誤りであると説く人もあるが、併し明治の初年、徳川時代を通じて吾々新舞鶴町民の先祖が、この神社を三宅大荒社と呼んで地方の崇敬をあさめてゐたには必ず何か據る所があったもので、明治の初年に軽々に式内社に定められた訳ではないと思はれる。以下私は昭和四年十二月末から冬休み一週間の間に見聞した三宅神社問題に就いて感じの侭を書きつけて見る。勿論、この書きものは三宅神社計りでなく、明治二十二年五月、舞鶴軍港開設によって、軍港内より現在の地に移転した事などを書きつけて滅びんとする北吸の旧い事を書きしるさうと思ふのである。

三宅神社は北吸村にありと言ふ説

(一)内務省蔵版 特選神名牒は最近の考証にかかる最も信用するに足る神名牒であるが、この書の中に三宅神社に関して次の様な文句が引かれてある。

三宅神社
祭神、今按姓氏録に三宅ノ連ハ新羅ノ国ノ王子天日桙命之後也。又古事記に三宅ノ連等之祖名多遅摩毛理云々と見えて其族類の但馬国に住りしことあり。丹後は其の隣国なるを以て同じ氏人の此国にも移り住めるが祭れる社なるべし。

所在。今按式内神社道志流倍ミチシルベに三宅神社北吸村と見えたるを明細帳に合せ考へるに北吸村北吸社とあり、此社なるべし。されど明細帳に三宅神社なる由を云はねば、いかにとも定めがたし。

『この論から推して考へると、三宅神社を祀る人々の先祖は朝鮮の貴族の末裔と言ふ事になり。但馬ノ国から此辺へ海に沿ふて移住して来たものである。又三宅神社を祭ってある場所はよほど海に接した場所であると推定してもよい。旧北吸村の三宅神社の御神域は海浜を去る約四町の処である。』

(二)特選神名牒
式内神社道志流倍には三宅神社は北吸村にあり。と明記されてたる由、特選神名牒にあり。

『この式内神社道志流倍を私は見ないのであるが、私の記憶では丹後一宮神社の禰宜であった特志の式内社研究家が諸書を渉猟して明治初年に書いたものと記憶してゐる。所が今問題になってゐる丹後風土記加佐郡残欠が古くから一宮神社に所蔵されてゐた事は疑ふ事は出来ない。その著書を参考しなかった理由はどこにあるだらう。この問題も軽々に看過してはならない。』

(三)大日本地名辞書 吉田東伍博士著

椋橋郷 和名抄に加佐郡高橋郷とあり。高橋は椋橋の誤ならむ。高山寺本に椋橋に作れり。今の倉梯村 与保呂村に当る。志楽郷の西。三宅神社は倉梯村大字北吸にあり。又式内社の一なり。

『吉田東伍氏の地名辞書は学界に相当の権威を有する書物である。東吾氏の地名に関する論断は科学的で吾々の信用してよい本である。三宅神社は北吸村にありとの明快な断定の基礎になって居る材料についての研究は今後の研究問題とせねばならぬ、又東吾博士が和名抄に高橋郷と書いたのは恐らく誤りであらう。古写本を多く残してゐた点で名高い京都北山にある高山寺本には椋橋とあるから、と論じて居られるるのを見ると、吾々は吉田説に賛成して、倉梯はもとから椋橋で高橋郷と書いた書物は誤った和名抄から索強附会したものではないかと疑ひを挟みたく、丹後古風土記加佐郡残欠がほんとに古い時代に作られたものであったら、椋橋とあるべきと私は信じる。高橋と書いてお伽噺の様な説明がしてあるのが吾々の研究問題として残る。』

(四)加佐郡室尾谷観音寺に在る神名帳扣

観音寺蔵の神名帳扣には、従二位三宅明神と記し、正三位河辺明神とある。三宅神社と河辺神社とを区別し、奥書の年号には于時元禄十二年卯十二月十二日 室尾谷観音寺明王院 先住慶等上人御筆ナリ。とある。
『時代によって隆替盛衰は免れない。現在はともかくとして元禄年間には公平な第三者の眼には、北吸の三宅神社は従二位であり、河辺明神は正三位であった事は疑ひ得ない。元禄と言へば約二百五十年を隔ててゐる。』

(五)大日本史 徳川光圀
徳川光圀卿が諸国の学者を召して編纂された大日本史に中にも堂々と式内社三宅神社は北吸村にあり。と論断してゐられる。ここに大日本史の信用価値を喋々と述べる必要はないと思ふ。
(六)神社覈録
神社覈録にも北吸村に式内三宅神社あり、と論じたる由なれど、その書を見ざれば今茲に意見を述ぶる事が出来ない。

境内・社叢

  

参道              手水舎

  
鳥居                  狛犬・拝殿

  

拝殿                   拝殿扁額


境内案内板(由緒)

  

拝殿側面                本殿

    

境内社                   石灯籠

地名・地誌

北吸は舞鶴市役所のある一帯をいう舞鶴市の行政や経済さらに軍事の中心地である。旧海軍が残した施設を転用再利用した海上自衛隊の施設や市の施設が集中する。 古くは北汐(きたしお)・北宿(きたしゅく)と称したという。「和名抄」の余戸(あまるべ)郷の地と推測され、中世には余部里庄に含まれていたといわれる(加佐郡誌)。北吸村は江戸期から明治22年の村名で、位置は現在の北吸ではなく、その一つ西側の現在は三宅(みやけ)谷と呼ばれている地にあった。この旧地は海軍軍用地として収公された。「明治22年海軍予定地として45戸全戸が買上げとなり、浜の一部、寺川以西の現糸谷の地に同23~24年にかけて移転した。明治31年追加用地として北宿地区が射的場および官舎用地として買い上げられた。」(『角川日本地名大辞典』) 氏神は江戸時代までは高倉神社(長浜)。 現在は三宅神社。

地 図

京都府舞鶴市北吸212-5

交通アクセス・周辺情報

舞鶴市役所 海上自衛隊舞鶴地方統監部 赤レンガ倉庫群

参 考

「神詣」さん、「丹後の地名地理・歴史資料集」さん、『延喜式の調査』さん

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