式内 中臣崇健神社
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概 要
社号 式内社 因幡国邑美郡 中臣崇健神社
読み:古 ナカトムタカタケ 現 なかとみたかたけ
江戸時代は「岡森天王」と称していた
所在地 鳥取県鳥取市古郡家(ここおげ)字西土居161
旧地名 因幡国邑美郡
御祭神 大物主命(オオモノヌシ)
社傳によると大物主命としているが不明
例祭日 4月19日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
因幡国(イナバ):50座(大1座・小49座)
邑美郡(オフミ):1座(小)
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式 本殿なし
境内摂社(祭神)
歴史・由緒等
邑美郡唯一の延喜式内社。
社地は美和古墳群の一角に当たる。この社が拝する古墳から大和との深いつながりが見える。(神奈備へようこそ さん)
とあり、中臣という社名からして歴史から因幡の国の発祥と古墳にも興味があったのでぜひ行きたかった神社だ。
中臣、古墳、式内社、郡家、歴史好きには魅力的な条件はそろっている。すぐ近くに弥生期の古郡家遺跡がある。
また郡家とは国府の国衙(国庁)に対して郡衙のことだ。国府や駅とともに地方における官衙施設で、郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ)・郡院(ぐんいん)という。鳥取市南に八頭町にも郡家があり、八頭町合併前は郡家村だったと地元の人に聞いたことがあるが、古郡家とは郡家の古地という意味だろうかとも。邑美(おうみ)郡は『和名抄』には美和、古市、品治(ほんじ)、鳥取、邑美の5郷が記載されている。ほぼ現在の千代川東岸の鳥取市街地である。古郡家という地名は『和名抄』には記載されていないから国府や郡家が廃れたあとに地名として残ったものだろうと思われる。
【中臣氏】
中臣氏(なかとみうじ)は、古代の日本において、忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族で、古くから現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた。天児屋命(アメノコヤネ)を祖とする。姓(かばね)は連(むらじ)、八色の姓制定後の姓(かばね)は朝臣(あそみ・あそん)。
物部氏とともに仏教受容問題で蘇我氏と対立した。中臣鎌足は645年の大化の改新で活躍し、669年の死に臨んで、藤原姓を賜った。以後鎌足の子孫は藤原氏を名乗ったが、本系は依然として中臣を称し、代々神祇官・伊勢神官など神事・祭祀職を世襲した。
境内・社叢
鳥居・社号標 太神宮と記された石灯籠
両側に民家があり、細く長く続いている参道 注連柱
手水舎 境内と拝殿
本殿はなく瑞垣の中に磐座が祀られている
拝殿左の境内社 右の境内社
もっと撮影したのだが暗くて押せてなかったようで残念。
地名・地誌
因幡最大の前方後円墳「古郡家1号墳」の前方部分の近くにある。
・この古墳から出土した副葬品は奈良県橿原市の新沢千塚五百号墳と酷似しており、大和との密接な関わりが古くから指摘されていた。
・『鳥取縣神社誌』によると、當社は因幡国一之宮宇倍神社の宮司伊福部氏に深く崇敬されたという。
・『因幡誌』は社名の中臣から中臣氏祖神天兒屋根命とし、崇健を「丈が髙い」との意と推測している。度會延經『神名帳考證』は天兒屋根命、埴安神とし、崇健を德の髙い神の意と解いている。石宝垣を神居として、本殿がないのが特徴。
一口メモ
生山の槻折神社から県道194号線を西へ、JR因美線津ノ井駅を迂回すると県道226号線。そのまま進むと国道29号津ノ井バイパスの大きな道路にでる。日立金属などの工場団地を過ぎて米里の交差点を過ぎてJA鳥取いなばのすぐ先を左折すると古郡家。のはずが入る道が分からず行きすぎて美和からめざすが古墳らしき場所まで近づいたが道が狭すぎて元の広い道まででて古郡家へ引き返して古郡家集落の中の細い道を行きたどり着く。
車を停められそうな場所をさがすが見あたらないので罰当たりは覚悟で鳥居の中へ置く。たまたま軽四で来ていたので助かった。駆け足で向かうがなかなか奥まで遠い。
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