式内 多他神社
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概 要
社 号 式内社 但馬国七美郡 多他神社
読み:古 タタ 中古 おおた 現代 ただ
江戸時代は「三宝荒神」
所在地 兵庫県美方郡香美町小代区忠宮136
旧地名 但馬国七美郡小代郷
御祭神 素盞嗚尊(スサノオ)
配祀神 太田他根子命(オオタタネコ) 埴安命(ハニヤス)
『国司文書 但馬神社系譜伝』 多他毘古(タダヒコ)命
例祭日 10月1日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』式内社
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
七美郡(しつみ):10座(並小)
近代社格制度 旧郷社
創建 貞観3年(861)9月
本殿様式 三間社流造、軒唐破風付、柿葺 元文三年(1767)(神社誌)
境内摂社(祭神)
一口メモ
国道9号線を鳥取方面へ。村岡中心部を過ぎて、但馬大仏(長楽寺)や香住へ分かれる入江交差点を進み和田交差点を国道482号へ左折すると9号線と並行して走る長いバイパス。どうしてもっと長板旧交差点側に設けなかったかが不思議に思うのだが、春来トンネルまで9号線最大距離の登坂車線が続く長い坂だから安全な平坦部まで延伸させたのだろう。鳥取方面からは長板旧交差点の方が近いのだが。(ずっと長い坂だから長坂だと思っていたけど長板である。)
香美町小代区は、旧美方町で先月は鳥取への帰り道、我が町に通じる国道482号の兵庫県側の通行止め終端をめざしてはじめて訪れた。旧美方町内の国道に昇格した482号の鳥取県への開通は悲願だったが、氷ノ山越えは台風23号の被害から止まってしまっている。
その時は神社めぐりと目的が違っていて、時間も限られていたので式内巡りは断念した経緯がある。旧美方町と温泉町は3社残していた。
多他神社は、小代中心部をさらに奥へ行くと、ゆるいカーブの右側にあった。
歴史・由緒等
鎮座地名の「忠宮」は、当社「多他神社」のこと。
資料によっては、当社社号に「おおた」と訓が記されている場合もあるが(「ただじんじゃ」だろう)。
『国司文書 但馬神社系譜伝』
人皇十七代仁徳天皇の十五年四月、七美郡司・志都美毘古命これ(多他毘古命)を祀る。
貞観元年(859)9月の創立と伝え、延喜式の制小社に列せらる。
近世三宝荒神とも多他大明神とも忠宮とも称し小代庄一の宮と仰ぎたり。
寛文3年(1663)本殿を建立し元文3年(1738)同殿を造立す。文化12年(1815)同殿を修覆し万延元年(1860)之を再興せり。
明治2年(1869)神仏分離の際、山名藩政務局調査の上、神霊を白川神祇伯より勧請し同3年(1870)正月之を鎮斎して社名を多他神社と改めたり。同6年(1873)10月村社に列し大正6年(1917)幣殿拝殿を新築せり。
「兵庫県神社庁」
太田田根子(おおたたねこ)命
大田田根子、意富多々泥古命とも書く。『古事記』『日本書紀』の伝承にみえる人物で、三輪山(桜井市)の神である大物主神の子。神君、鴨君の祖先とされる。『日本書紀』崇神天皇七年八月の条で、、茅渟の県(ちぬのあがた。和泉の国一帯の古称です)の「陶邑」(すえむら)の人です。「陶邑」は和泉の国大鳥郡陶器荘の地で、今の大阪府堺市東南部の陶器山からその西方にかけての地域です。現在でいえば、堺市、和泉市、岸和田市、大阪狭山市の一帯です。このあたりから多数の須恵器が出土していることから、古墳時代以降、須恵器生産の中心地として最大規模であったことは証明されています。
崇神天皇の世、疫病が流行したとき、天皇の夢に大物主神が現れて、疫病は自分の仕業であること、自分の血を引く大田田根子の手によって祭られればそれは収まると告げる。そこで大田田根子が捜し出され、確かに大物主神と活玉依媛との結婚によって生まれた者であることが判明したので、彼を大物主神の祭主に据える。するとたちまちに疫病は収まり、国内は平安を取り戻す。現在大神神社の摂社大直禰子神社に祭られている。
<参考文献>和田萃編『大神と石上』(神田典城)
奈良県御所市多田に多太(おいだ) 神社がある。祭神は
太田田根子命。多太をタタと読み、多太は太田田根子命の略称とする。
この多太(おいだ) 神社と同地の多他神社は同じ祭神で類似しているのだ。
埴安姫命は、日本神話に登場する土の神である。地鎮祭で、土の神として他の神とともに祀られることがある。太田田根子命も埴安姫命も、須恵器に関わりがある。
境内・社叢
社頭 境内への石段(日差しがきつく逆光ぎみ) 社号標
拝殿 桁行三間、梁間二間、入母屋造、向拝一間、鉄板葺
拝殿 本殿覆屋
左手境内社 稲荷神社 右手境内社 愛宕神社
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