おおい町 旧郷社 福井(若狭国・越前国)

式内 大飯神社

概 要

社 号 式内社 若狭国大飯郡 大飯神社
読 み:古 オホイヒ 現 おおい・おほいた
所在地 福井県大飯郡おおい町山田4-1
旧地名 若狭国大飯郡本郷村
御祭神  大飯鍬立大神(おおいたくわたちのおおかみ)
合祀 應神天皇 火産靈神
例祭日 10月10日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
北陸道 式内社352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
若狭国(ワカサ) 式内社42座(大3座・小39座)
大飯郡(オホヒ・おおい) 7座(貞・並小)

近代社格制度 旧郷社

創建     年代不詳
本殿様式   流造 檜皮葺

境内摂社(祭神)

八幡神社 愛宕神社 天満神社

一口メモ

小浜線・若狭本郷駅の南3Kmほどの、佐分利川に沿って、1号線を綾部方面へ進み、本郷の変電所付近で、大津呂川に沿って南東へ入って1Kmほど。田畑の奥、山の麓に白い鳥居が見えてくる。その社号は、郡名である大飯の意味を探る手がかりになるかもと期待がかかる。当社の社号・大飯は「おほいた」が正式で、鎮座地名も昔は「おほいた」と読んだらしい。ただし鎮座地名は「おおい」で、俗称も「おおいじんじゃ」だそうだ。

歴史・由緒等

社伝として、大飯田郷開拓の祖神七柱を、大飯鍬立大神・七社大明神として祀ったのが起源。
「鍬立」とは農業始めという意味らしい。
祭神の異説として、祭神不詳、猿田彦神などがある。

『若狭国神名帳』に「正五位志津志明神」とある古社で、
文化三年の棟札には「大飯鍬立社」、延宝三年の『由緒書』などには「七社大明神」とあり、式内社・大飯神社に比定されている神社。

地頭本郷氏の勧請による日枝神社を下宮と呼ぶのに対し、上宮とも呼ばれていた。

慶応四年(1868)小浜藩より式内社に認定され、明治五年郷社に列する。
その後、社格改正により一時期村社となったが、明治十四年郷社に復した。

明治四十四年十月、山田字村中の無格社・八幡神社と
八幡神社の末社・愛宕神社を合祀。
大正九年五月柴崎字墓前の無格社・八幡神社を合祀した。

-「玄松子の記憶」さんより-

境内・社叢


鳥居

田園にまっすぐ参道がのびる。
参道石段の左に境内への車道が整備されている。

  
社叢                   手水舎

  
拝殿覆屋 左境内社            拝殿覆屋

  
本殿                   境内社

地名・地誌

若狭国(嶺南)

地理的には若狭湾岸に位置しており、観光ガイドなどで北近畿に含まれることもある。また敦賀から舞鶴・米原・京都・金沢の各方面へ鉄道や道路が分岐しており、交通の要衝でもある。歴史的に、畿内から北陸道の入り口として機能したほか、若狭湾の港は古くから畿内の外港として機能し、京や近江、丹後との交流が盛んであった。

その影響もあって、嶺南地方で話されている方言は近畿方言である若狭弁で、舞鶴弁や江州弁の影響を受けている。

奈良時代、ヤマト王権の日本海側入口として、海産物を朝廷に多く献上した為に、「御食国 (みけつくに)」に該当すると推定されている。調・庸で塩を納めるよう定められ、8世紀には製塩が非常に盛んであった。塩を京に運んだことを示す木簡で1990年代までに見つかった129点のうち、若狭国は第1位で49点、38%を占める。

奈良の東大寺で実施されるお水取りは、東大寺が小浜に持っていた荘園に由来する祭である。平安時代から江戸時代まで、若狭地方は京都の外港として発展した。
江戸時代になると、京極高次が若狭を領することとなり後に越前敦賀郡と若狭地方一帯は、小浜藩領となった。

明治維新を迎えると、1871年8月29日の廃藩置県後、同年12月31日には、旧若狭国に敦賀郡・今立郡・南条郡を加えて敦賀県を形成した。1873年(明治6年)1月には、今立・南条を除く嶺北で構成された足羽県を編入し、敦賀県は、現在の福井県と同じ県域となった。嶺南という呼称は、現在の福井県が設置された1881年頃に、北陸道(北国街道)の難所である木ノ芽峠(木嶺)より南側を「木嶺以南」(もくれいいなん)と呼び始めたことに由来する。

1876年(明治9年)8月21日には敦賀県が分割され、敦賀郡と若狭地方(嶺南)は滋賀県に編入された。4年半後の1881年(明治14年)2月7日には、嶺南4郡と嶺北で福井県が形成された。突然このことを知らされた人々の中から遠敷郡の有志と、福井置県と同時に堺県の大阪府併合が布告される中、嶺南分割を滋賀県の京都併合への危機感と重ね合わせていた滋賀県令が、何度も嶺南4郡の滋賀県への復帰を政府に願い出たが、却下されてしまった。帰郷後、福井県設置後、初めての臨時県会への抵抗から、運動の中心人物1名、遠敷郡2名、敦賀郡1名が当選していた県会議員を辞職するなど、滋賀県への復帰を求める運動は、開始から約1年半の間、様々な形で続いた。1881年(明治14年)に、福井県令は、電信施設の設置を突如、政府が計画した他の地域の電信敷設計画を遅らせ、優先して嶺南に建設することを決定し、小浜小学師範・中学校開設費を原案通り可決し、年内にその設置を布達するなどの配慮を行った。嶺北と嶺南の地域対立の構図は、1881年からの約10年間、福井県政において、克服すべき大きな課題として存続し続けた。

明治前期に舞鶴鎮守府が設置されると、小浜線の敷設が進められた。
第二次大戦後には、若狭湾岸に原子力発電所が次々と建設され、これ以後は「原発銀座」と呼ばれている。また、現在の若狭地方は沿岸観光地域になっている。

そのように古くから関西とのつながりが深く、ラジオ・テレビ放送も関西エリアが受信できる。

大飯郡
若狭国、福井県の西端の郡。天長2年(825年)7月10日 – 若狭国遠敷郡を割いて大飯郡を建てた。
1955年(昭和30年)1月15日 – 佐分利村・本郷村・大島村が合併し、大飯町が発足。

おおい町は、福井県南西部の町。2006年3月3日に遠敷(おにゅう)郡名田庄村と大飯郡大飯町(読み同じ)が合併して誕生した。東西は高浜町・小浜市の間、南は京都府綾部市・南丹市、滋賀県高島市に隣接する。

おおい町石山の石山武田氏遺跡は、若狭武田氏終焉の地として有名である。最後の若狭武田氏当主となった武田元明は、越前朝倉氏の滅亡後、織田信長より大飯郡石山に於いて3000石を与えられた。しかし信長没後、明智光秀に同調した武田元明は、武田家遺臣を糾合し丹羽長秀の本城・近江佐和山城を攻めたため、羽柴秀吉・丹羽長秀により自刃させられた。武田元明が没することにより若狭武田家は滅亡した。

山田

当社の社号・大飯は「おほいた」が正式。
ただし鎮座地名は「おおい」で、俗称も「おおいじんじゃ」だそうだ。
もっとも鎮座地名も昔は「おほいた」と読んだらしい。

地 図

福井県大飯郡おおい町山田4-1

交通アクセス・周辺情報

不動の滝公園、長井浜海水浴場

参 考

『延喜式の調査』さん、「神詣」さん、「丹後の地名地理・歴史資料集」さん、他

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