洛北 京都市 京都(山城国)

式内 賀茂波爾神社(赤の宮) 賀茂御祖神社境外摂社 

概 要

社 号 賀茂波尓神社
別名:赤の宮

江戸時代は赤の宮稲荷大明神

式内社 山城国愛宕郡 賀茂波爾神社
他に論社 賀茂別雷神社境内の土師尾社等
賀茂御祖神社(下鴨神社)境外第四摂社 賀茂波爾神社
読み:古 カモノハニ、現 かもはに
所在地 京都市左京区高野上竹屋町35
旧地名 山城国愛宕郡
御祭神 波爾安日子神・波爾安日女神

例祭日 例祭(御蔭祭、路次祭)5月12日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
愛宕郡(オタキ) 21座(大8座・小13座)

近代社格制度 旧村社

創建     年代不詳 明治15年に赤ノ宮を賀茂波爾神社に指定
本殿様式

境内摂社(祭神)

権九郎稲荷社

一口メモ

北大路通が白川通と突き当りで交差する西、北大路通を東大路通へ上がる。
大学時代に一乗寺下り松町付近に下宿していたので、一乗寺や北大路通や東大路通はよく歩いていたが、神社にあまり関心はなかったし、その間の通は歩かなかったから、近くだったが神社があるのを知らなかった。叡電一乗寺駅の西500m。

境内に波爾井御神水があり、当所から湧き出る水を御供水としたと云う。参拝中にもペットボトルに詰めている人がいた。

歴史・由緒等

下鴨神社の境外摂社で式内社賀茂波爾神社の論社。波爾安日子神、波爾安日女神を祀る。社名は、鎮座地側を流れる高野川かつて埴川と呼ばれていた事から、または祭神名から由来する。天照大神の弟神で大地を守護し、万物の生成発展、殖産興にはじめ方除、火災、災難、疫病、厄除け等の信仰が篤い。御蔭祭(御生神事)の時、路次祭が行われ、舞楽「還城楽(げんじょうらく)」が奉納される。

御祭神の波邇安日子神、波邇安日女神は天照皇大神の御弟神で大地を守護し、万物の生成発展、殖産興業をはじめ方除、災難除、疫病、厄除け等多方面に亘っての御神徳を備えられている。
創建の年代は不詳であるが、延喜式神名帳に「賀茂波邇神社二座」とある社で延喜年間以前からこの地に山城平野の総鎮守神として奉祭された。
現在の社名は賀茂御祖神社第4摂社賀茂波邇神社であるが、明治10年3月に官幣大社賀茂御祖神社の摂社に加列し、それ以前は村社波邇神社と云い、単に赤の宮とも呼ばれていた。京洛でいまなお親しく赤の宮と呼ばれている所以は江戸時代に赤の宮稲荷大明神と呼ばれ、稲荷神、迦遇突智神とが併せ祀られていた。一般に稲荷の神を祀る社は、社殿を朱に染めるところから、当神社も古くは丹塗りであり、誰言うなく赤の宮の名が起こったのであろう。また、当神社の祭神を西泥部、土師などが祖先神と仰ぐところから、赤土の宮が赤の宮となったとする説もある。
当神社の鎮座地は高野川の畔であるところから、度々河川の氾濫により社殿は流失し、田畑は荒廃を極めたが、寛文11年(1661)頃、修学寺(修学院)に御本屋、離宮が造営されその御幸路に接し、また同じ頃、高野川流域の新田開発が成功して以来急速に発展し今日の賑わいを見るにいたった。

「社頭掲示板」

下鴨神社「御蔭祭」(みかげまつり) 5月12日

葵祭りに先駆けて、比叡山山麓の八瀬御蔭山(御蔭神社)より神霊を下鴨神社に迎える重要な神事。行列は、国内で最古の神幸列と言われています。早朝本社を出発した行粧は、昼間に御蔭神社に達し、神霊を奉じて夕刻本社に到着御本殿に遷御、途中、糺の森に於ける切芝神事、東游は優雅な王朝の祭典として名高く、また、この祭は我が国最古の神幸列として、毎年神馬に神霊を遷し本社に迎える古代の信仰形態を今に伝える祭として有名です。

八瀬御蔭神社出発した後、赤の宮神社(当社)に立ち寄り、赤宮路次祭 舞楽奉納。中通り巡行、下鴨神社内河合神社着。北大路通の下鴨本通交差点から下鴨神社南参道までの約1kmを巡行します。

御祭神の波爾安日子神、波爾安日女神は天照皇大神の御弟神で大地を守護し、 万物の生成発展、殖産興業をはじめ方除、災難除、疫病、 厄除け等多方面に亘っての御神特を備えられている。
創建の年代は不詳であるが、 延喜式神名帳に賀茂波爾神社二座とある社で延喜年間(901年頃) 以前からこの地に山城平野の総鎮守神として奉斎された。

現在の社名は賀茂御祖神社(通称:下鴨神社)第四摂社 賀茂波爾神社であるが、 明治十年三月に官幣大社 賀茂御祖神社の摂社に加列し、それ以前は村社  波爾神社と云い、単に赤の宮とも呼ばれていた。京洛でいまなお、親しく赤の宮と呼ばれている所以は、 江戸時代に赤の宮稲荷大明神(慶応四年)(1868年)太政官神祇局調と呼ばれ、 稲荷神、宇迦之御魂神とが併せ祀られていた。一般に稲荷の神を祀る社は、 社殿を朱に染めるところから、当神社も古くは朱塗りであり、誰 云うなく赤の宮の名が起こったのであろう。また、当神社の御祭神を西泥部、 土師などが祖先神と仰ぐところから、赤土の宮が赤の宮となったとする説もある。

「神社案内板」

境内・社叢

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鳥居                   社号標

  

波爾井御神水               拝殿(舞殿)

  

本殿拝所                 本殿

権九郎稲荷社鳥居扁額

地名・地誌

高野(たかの)

高野川と賀茂川の合流点(合流して鴨川)付近を南端に、高野川東岸。北は同じ愛宕郡の修学院村(現在の左京区一乗寺)、東は同じく白川村(同・北白川)、南は京都市上京区吉田(同・吉田)、西は高野川を挟んで愛宕郡下鴨村(同・下鴨)に囲まれており、村の境域は現在の左京区田中地区および高野地区(田中および高野をそれぞれ町名に冠する地域)にほぼ相当するごく狭い区域であった。
1878年:郡区町村編制法により愛宕郡田中村・高野河原村の2村が発足。
1889年:町村制施行により上記2ヵ村を統合して愛宕郡田中村が発足。旧村名を継承した2大字(田中・高野河原)を設置。
1918年(大正7年)4月1日:京都市上京区に編入。
1929年(昭和4年)、上京区から分区して左京区が新設された際、旧田中村・高野河原村域はすべて左京区に編入。

鴨族は、葛城山に住んでいた賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を氏神としていた。神武天皇東遷の時、天皇を熊野から大和へ道案内した人物である。山野を行く姿が勇猛で、烏が空を飛ぶようであったことから、後に八咫烏(やたがらす)の名で尊称された。『山城国風土記』逸文によると、大和の葛城山の峰から山代国に移ったと記している。大和の葛城山にいた賀茂建角身命が山代の国の岡田の賀茂に至り、木津川を下り、葛野川(桂川)と賀茂川の合流点までやってきた。そして北方の賀茂川を見渡し、「狭く小さいけれど石川の清川なり」と述べ、「石川の瀬見の小川」と名付けた。その後、賀茂建角身命は賀茂川の上流の久我の山麓に住むようになった、と伝えている。神が一人で移ることはない。その神を祀る集団の移動するのである。すなわち、何時のころか、葛城山麓を離れた鴨氏の一派が奈良盆地を北上し、奈良山を越えて加茂町まで勢力を伸ばし、さらに現在の京都の上加茂、下加茂の辺りにまで進出して、この地に定着した史実を伝えている。

賀茂建角身命は丹波から伊賀古夜比売(いかこやひめ)を娶り、玉依日子命(たまよりひこのみこと)と玉依比売命(たまよりひめのみこと)という二人の子をもうけた。玉依日子命は、後に父の跡をついで賀茂県主(かものあがたぬし)になったとされている。妹の玉依比売が瀬見の小川(現在の賀茂川)で川遊びをしていると、川上から一本の丹(に)塗りの矢が流れてきた。それを持ち帰ったところ、たちまちに懐妊して、賀茂別雷神(かものわけいかづちのかみ)を生んだという。

やがて、鴨族はヤマト王権の支配下に組み入れられて賀茂氏を名乗るようになり、その族長は賀茂県主(かものあがたぬし)と呼ばれた。鴨族が京都盆地に定着した時期はよく分かっていない。一般には、渡来系氏族の秦氏より早くから住み着いていたように考えられている。

『新撰姓氏録』には、応神14年に渡来した秦氏が「大和朝津間腋上地(わきがみのち)」に住んだという記述がある。この腋上は、鴨族が盤踞していた葛城山の東山麓に位置している。このため、秦氏の移住と時を同じくして、鴨族の京都盆地に入り込んできた、というわけである。

鴨族は賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を氏神として祀り、一族の紐帯を強めていた。上賀茂神社の社伝によれば、この神は賀茂建角身命の娘・玉依比売命(たまよりひめのみこと)と山代の乙訓(おとくに)社の火雷神(ほのいかづちのかみ)との間に生まれた若き雷神である。だが、『古事記』は賀茂別雷大神の父親を火雷神ではなく、大山咋神(おおやまくいのかみ)としている。大山咋神は秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大宝元年(701)に建立した松尾大社の祭神である。

このため、秦氏と賀茂氏とは婚姻関係で結ばれていたこと、上下賀茂神社の神と松尾大社の神とは共通の姻族神であったことがうかがえる。さらに、稲荷神社を創建した秦伊侶具(いろぐ)は、賀茂県主久治良(くじら)の子で、松尾大社の鴨禰宜板持と兄弟という伝承も、稲荷神社に伝わっているとのことだ。

高野川

「日本後紀」によると、高野川は平安時代には埴川と呼ばれていた。「雍州府志」によると、高野村を通ることが高野川の名前の由来だとしている。
京都市左京区と滋賀県大津市の境に位置する途中峠の南部に発する。以降は国道367号と並行して南進する。左京区大原北部のミタニ峠を源とする川を三谷口で合わせ、左京区鞍馬と左京区大原の境に位置する天ヶ岳を源とする高谷川を小出石町で合わせる。三谷口からは大原川、八瀬流域では八瀬川とも呼ばれる。

さらに三千院の裏山を源とする呂川や、寂光院の裏山を源とする草生川を合わせ、比叡山の西麓を南進する。上高野の花園橋で白川通と交差し岩倉川を合わせ、川端通と併走しながら出町柳の加茂大橋で賀茂川と合流して鴨川となる。
京都の地図で、鴨川はよくYの字で表されるが、その右側に当たる川である。

地 図

京都市左京区高野上竹屋町35

交通アクセス・周辺情報

京都バス赤の宮から徒歩3分

参 考

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