式内 盈岡(みつおか)神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 式内社 但馬国養父郡 盈岡神社
読み:古 ミツヲカ 現 みつおか
江戸時代は「八幡宮」「岡の八幡」と称していた
所在地 兵庫県朝来市和田山町宮内42
旧地名 但馬国養父郡石禾(いさわ)郷
御祭神 譽田別命(ホムダワケ=応神天皇)
配祀 息長足姫命 武内宿禰
道守臣の祖・波多矢代宿祢ハタヤシロノスクネ命 『国司文書 但馬故事記』
例祭日 10月15日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
養父郡(ヤフ・やぶ):30座(大3座・小27座)
式内社

近代社格制度 旧県社

創建     年代不詳
本殿様式   流造桧皮

境内摂社(祭神)

厄除八幡社・荒神社・靖国社・護王社・稲荷社・若宮社・妙見社・辨天社・三柱荒神社・他

一口メモ

朝来市和田山町宮内は但馬最大の前方後円墳池田古墳のある〃平野から3.5km北に位置し、国道9号線沿いにある丸山古墳(前方後円墳)を代表に、宮内の古墳群は6世紀から7世紀に造られたもので、50基近くある。

鳥居から長い石段を登ったが、帰りは北に参道があったのでそちらから降りた。車で上れる道とは別に、細いがゆるやかな参道があって、途中に摂社がいくつも点在している。これからお参りされる方はこちらの方が楽です。八幡宮(神宮寺)だった形跡として途中の山門(神門?)には大きな鐘が写真のようにそのまま残っている。

歴史・由緒等

盈岡神社は大蔵の中で寺谷の手谷神社と2つある式内社のうちの一つ。気長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)を祀り、但馬131社の社座の中心社の一つ。かつては、石和7か村(宮内、岡、法道寺、高田、高瀬、堀畑、大塚)の総氏神様であった。

『国司文書 但馬故事記』
人皇44代元正天皇の養老7年春3月、主政・道守臣寺人が、これ(その祖・波多矢代宿祢命)を盈岡に祀る。
波多矢代宿祢命は、武田宿祢命の御子にして、道守臣の祖なり。

境内・社叢



国道から少し入った場所に立派な社号標    社叢

  
鳥居                   参道石段

  
拝殿                   本殿

  
本殿右手奥 厄除八幡と御神木

  

靖国社              牛頭天王社

  
若宮社


妙見社


右手の参道にも境内社がたくさんある。

  
懸社昇格記念塔

  
石段の右手にも参道があり割拝殿       神仏習合の名残の鐘

地名・地誌

石禾(いさわ)郷
『国司文書 但馬郷名記抄』
石禾彦命鎮座の地なり。この故に名づく。石禾彦神社あり。石禾彦命を祀る。

土田(ハンダ)・手谷村・藤和村・盆岡(ミツオカ)村・高田村・織機村(今の堀畑)

『校補 但馬考』
「大田文」曰く、石禾郷
上下分けて両庄とす。
石禾上庄、これ今の土田郷 村数四
土田・手谷・東谷・平野
石禾下庄、今の石禾庄 村数七
高瀬・宮内・岡・法道寺・高田・堀畑・大塚

大蔵地区

この地域は江戸時代までは石和(いさわ)郷と称され、その後石和郷(石禾庄)・土田(ハンダ)庄に別れ、石和庄、高田庄、土田庄などと呼ばれた時代もありました。隣接する藤和や大塚(養父市)がこの地域の一部であった時代もあったようです。
明治までは、養父郡大蔵村で、1955年(昭和30年)3月31日 – 和田山町と東河村が合併して和田山町に、大蔵村と糸井村が合併して南但町になり、1956年(昭和31年)9月30日 – 和田山町、竹田町、南但町が合併し、朝来郡和田山町となった。

地形的に見ると、北流する円山川が大きく西に蛇行し、唯一西に流れる場所が大蔵で、大半がその南岸と大倉部山に挟まれた細長い地域。

盈岡(みつおか)とは?

盈という漢字は最初は読めなかった。 調べてみると、
音:エイ 訓:み-たす、み-ちる、みつ、あまる

1.みちる。いっぱいになる。たっぷりとあるさま。みたす。いっぱいにする。類「満」対「虧」「虚」 2.あまる。類「贏」

『国司文書 但馬郷名記抄』に盆岡とある。

国道9号和田山町市街から北へ向かうと平野に但馬最大の前方後円墳で、兵庫県でも4番目の規模の池田古墳(墳丘の全長約141m)がある。大蔵東部の4世紀頃に築造された円墳城ノ山古墳からは埋蔵品が多く出土し、池田古墳は、5世紀頃の築造と考えられ、但馬最大級でいずれも南但馬をかつて治めた王の墓と考えられている。宮内や高田のおびただしい古墳群も発見されており、これらの出土品、遺構から大和朝廷との深い関わりがあったことや、かつて古代では、但馬の王権の膝元であったと推測される。

また、戦国時代まで、当地域は山陰での東西要衝の地であり、大蔵12城として、鳶が寺城址、法道寺城址、岡城址、寺谷城址、観音山城址、高瀬城址、芳賀野城址、岡比丘尼城址、岡の高城址、茶臼山城址、茶臼山北城址、雑賀城址などの山城が 多く散在し、織田軍、毛利軍のせめぎあいがあったことが推察されている。

平成20年度、古墳を守るために設置された池田大橋の付け替え工事による発掘調査が行われ、平成21年11月3日の現地説明会に私も参加した。

新たに墳丘両側の周濠部で、全国で初めて周濠を横断する渡土堤(わたりどて)のほぼ全容が検出されました。 墳丘裾部や渡土堤から水鳥形埴輪7体が出土し、古墳の祭祀のあり方についての貴重な資料が得られました。 墳丘くびれ部の両側から、造出し(つくりだし(古墳の祭祀場))がみつかりました。大型古墳で両造出しの全容が調査されたのは全国で初めてです。 水鳥形埴輪の総出土数は、20年度に出土した7体と朝来市の調査でみつかっている1体を加え計15体となり、応神天皇陵(誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳)とならび全国最多となります。

-兵庫県立考古博物館-

地 図

交通アクセス

JR山陰本線「養父駅」より南へ1800m

周辺情報

参 考

「延喜式神社の調査」さん、他

但馬の神社と歴史三部作

Follow me!


1件のコメント

コメントを残す

アバタープレースホルダー

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA