春日神社(式内 保奈麻神社論社)
Contents
概 要
社 号 春日神社
読み:かすがじんじゃ
延喜式神名帳 式内社 但馬国養父郡 保奈麻神社(論社)
読み:ホナマ
所在地 兵庫県養父市八鹿町大江542-1
旧地名 但馬国養父郡大恵村
御祭神 彦火瓊々杵命(ヒコホニニギノミコト)
『国司文書 但馬神社系譜伝』紀臣命(きのおみ のみこと)
例祭日 10月17日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
養父郡(ヤフ・やぶ):30座(大3座・小27座)
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式 流造柿葺
境内摂末社(祭神)
稲荷神社
一口メモ
大江の下で隣の坂本と岩崎・大江に別れる辻にある花岡神社は訪ねたが、まだ同社には行っていなかった。1月10日に雪が降ったあとの1月12日に大江に。参道という石碑が立っている集落の上に旧道があり、川が流れて脇の道が参道で、イノシシか鹿の足跡が積もった雪に残る。
式内保奈麻神社の論社が下記の通り4社ある中で、以下の地誌に書いた”稲栄大生原(イサナノオホヒハラ)(今は伊佐大恵原という)”との記述から浅間郷で、伊佐・大江は最も古くからある村であり、大江の鎮守とされるこの春日神社が最有力だと思う。
歴史・由緒等
保奈麻神社論社
花岡神社 祭神 不詳 村社 養父市八鹿町坂本字宮ノ下650-1
五社神社 祭神 五社大神(ゴシャノオオカミ) 養父市八鹿町岩崎270-1
春日神社 祭神 彦火瓊々杵命(ヒコホニニギノミコト)配祀神 天津児屋根命(アマツコヤネノミコト) 村社 養父市八鹿町大江542-1
大歳神社 朝来市和田山町土田1238
(往古この附近の名を(ホナマ)と称したという。)
兵庫県神社庁には、
創立年月不詳
明治6年(1873)10月村社に列せらる。
とあるのみ。
興味深い記録に、
『国司文書 但馬故事記』に、
人皇40代天武天皇の白凰12年冬10月、
紀臣の男、麻奈臣の子・保奈麻臣を以て、夜夫(今の養父)郡司と為す。
保奈麻は遠佐(ヲサ)郷*1を開き、その祖武内宿禰を屋岡ノ丘に祀り、屋岡神社と申し祀る。
また紀臣を大恵保(大江)に祀り、保奈麻神社と申し祀る。遠佐(ヲサ)郷開拓の祖なり。
『国司文書 但馬神社系譜伝』に、
浅間郷 保奈麻神社 養父郡大江村鎮座
祭神 紀臣命
人皇四十代天武天皇の十二年冬十月、養父郡司保奈麻臣これを祀る。
武内宿祢は、紀の角宿祢の裔 紀ノ臣は百済にあり。欽明天皇の御世、同族四人・国民三十五人を率いて帰り来る。
天皇勅して、珍勲臣と称し、三十九人を譯官(おさのつかさ)となしたまう。
時人日譯(おさ)氏と号(もう)す。紀ノ臣の男(息子)は麻奈臣、孫は保奈麻臣。保奈麻は遠佐(ヲサ)郷*1を開く。浅間郷 佐伎津彦阿流知命神社 養父郡坂本花岡山鎮座
祭神 佐伎津彦・阿流知命第四代懿徳天皇(いとくてんのう)の二十年夏四月、屋岡県*2主 大照彦命、これ(佐伎津彦命・阿流知命を花岡山に)を祀る。
佐伎津彦命は佐久津彦命が佐々宇良姫命を娶り、生むところなり。
阿流地命は、佐伎津彦命が真名井の天物部命の女(むすめ)・佐伎津姫命を娶り、生むところなり。
*1 遠佐(ヲサ)郷 今の養父市八鹿町中心部・小佐川流域
*2 屋岡県(ヤオカアガタ) 八鹿の古名
以上の2つから、保奈麻神社は養父郡大江村鎮座で、佐伎津彦阿流知命神社は養父郡坂本花岡山鎮座とすれば、花岡神社こそ佐伎津彦阿流知命神社に近く、春日神社が大江鎮座の保奈麻神社に濃厚な感じがする。岩崎の五社神社も同じ浅間郷なので分祀されたことは大いにあり得るが、保奈麻神社は大江村鎮座とあるから岩崎は元の鎮座地からは遠い。大歳神社 朝来市和田山町土田も分祀は考えられる。
境内・社叢
社叢 境内
鳥居 鳥居扁額
御神燈 御神橋
本殿覆屋 本殿
覆屋側面 境内社 稲荷社
地名・地誌
大江(おえ)
『国司文書別記 郷名記抄』
稲栄大生原(イサナノオホヒハラ)(今は伊佐大恵原という)
佐伎津比古・阿流知命開発の地なり。佐伎津彦命は、気多郡佐々前(ササノクマ)の県主・佐久津彦命の御子。阿流知命は佐伎津彦命の御子なり。故に佐伎津彦阿流知命神社をこの地に鎮座す。花咲津墾山にあり。
大恵保(大江)・船山(おそらく浅間か三谷)・小田・兵庫村(浅倉)・伊久刀村(赤崎)・新美寺・大蔵村(青山)・田中(おそらく宿南)(省略)
[註] 兵主神社が浅倉に、伊久刀神社が赤崎、大蔵神社が青山にあるので浅間郷
『校補 但馬考』(明治27)
浅間郷
村数十二
上小田・下小田・伊佐・坂本・大恵(大江)・岩崎(イハサイ)・浅間・宿南(シクナミ)・青山・深谷(三谷)・赤崎・浅倉
「校補但馬考」の浅間郷には、太田文*1曰く、大恵(オホエ)、大恵本郷、今は大江と云って一村なり。岩崎(イハサイ)村、與垣(ヨカイ)村、今は坂本の枝村なり。
*1 『但馬国太田文』弘安八年(1285)
伊佐
伊佐の地は、中古荒蕪して居民なし。小田備州公の時、臣の祖父墾闢して新田とし、耕す者来たり集まり、ついに一村となる。その始まり延宝二年より今年(明治27)に至りて、78年なり。往古は小田村に属せりと見えたり。然るに、大恵は最も古きなるにや、今に至りて、すえてこの辺を大恵の保内(ホウナイ)と称す。
(以上)
『国司文書別記 郷名記抄』(天延三年・975)稲栄大生原(イサナノオホヒハラ)(今は伊佐大恵原という)をみると伊佐と大江は一括りのつながりがあるので、桜井勉の『校補 但馬考』の「往古は小田村に属せりと見えたり」は単なる想像の域であると思う。円山川を隔てて伊佐が小田の新田と考えるより、川伝いの伊佐と大江の繋がりの方が自然である。
『国司文書別記 郷名記抄』(天延三年・975)から『但馬国太田文』弘安八年(1285)まで310年経ってる。
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「兵庫県神社庁」、「延喜式神社の調査」さん、他
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