村社 関神社
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概 要
社 号 関神社
読み:せき
所在地 兵庫県養父市関宮字島ヶタワ1017番の1
旧地名 江戸まで 但馬国養父郡八木郷羽山庄関宮
平安後期 養耆郷(夜伎郷)志貴
御祭神 素盞嗚命(すさのお のみこと) 稻田姫命(いなだひめ のみこと)
例祭日 9月30日
社格等
式外社
近代社格制度 旧村社
創建 (西暦641)今から1340年前
本殿様式
境内摂社(祭神)
一口メモ
国道9号線とハチ高原スキー場、氷ノ山国際スキー場へ行く県道87号線(旧国道9号)との分岐点である関神社前交差点北脇に巨木の杜が見える。国道9号線は関神社を迂回してまっすぐな長い坂が始まる。旧山陰道は神社前を通り、式内 井上神社がある県道87号線(旧国道9号)だった。
歴史・由緒等
創建された理由
関神社はその昔、皇極天皇が西国の悪病が、都(京都)に入らないようにと広峯(姫路)と羽山(関宮)の地を選んで素盞嗚命の御神霊をお祭りになった。その功あって、悪病が都に入ることを防ぎ得たので、宮号を関宮(病を関とめた宮)関神社とされたと言う。
素盞嗚命は、悪病除けの神様として全国に広くお祭りされております。-御由緒板-
広峯神社も関神社も創建からいうと古社なのに式内社に入っていません。広峯神社も明治の神仏分離令以前の祭神は牛頭天王であり、本殿内に薬師如来を本地仏として祀っていたとされ、仏教色の濃い神社だったのでしょうか。そういえばここの本殿には何故か位の高そうな人物と僧の像が置いてありましたが。
『国司文書 但馬故事記』第三巻・養父郡故事記
第45代聖武天皇の天平18年(746年)、志賀連果安来たり。養耆の羽山を開く。故にその地を志貴という。
志貴連果安は、その祖・彦湯支命を羽山の丘に祀り、志貴神社と申しまつる。
中井権次の彫刻
お正月の初詣で神社を訪問した人も多いでしょう。神社や寺院の建物には優れた彫刻が刻まれています。江戸時代後期から昭和初期に活躍した彫刻師に丹波柏原の中井家があります。中井権次(ごんじ)を襲名して、多くの彫刻を但馬・丹波・丹後に残しました。
関宮にある関神社の本殿は弘化4年(1847)、拝殿は天保14年(1843)の建築です。いずれも中井家の彫刻です。本殿の裏側にまわって脇障子という部材をみると「彫物師 丹州柏原町住人 中井権次橘正貞」の文字が見えます。中井家は、柏原藩お抱えの彫刻師で、その3代目が正貞です。関神社は、江戸時代には祇園牛頭天王(ごずてんのう)関宮社と言いました。この言葉は、祇園・牛頭天王・関宮社という三つの語句に分かれます。牛頭天王の信仰は、京都八坂神社や姫路広峰神社を本宮とします。疫病や災厄を鎮める祇園信仰と、米の豊作を祈る農業信仰の二つの性格があります。関神社の神様が疫病を防いだという伝説は祇園信仰によるものです。そして関神社の夏祭りは、現在も祇園祭と呼ばれています中井家の彫刻は、龍や獅子噛(しかみ)に特徴があります。獅子噛は、獅子が上の歯列でものをかんだ顔を彫刻するものです。通常は大杉二宮神社本殿のように正面の唐破風(からはふ)の下に彫りますが、関神社の場合では側面の妻飾(つまかざり)にあります。中井家の彫刻は大久保大久保神社、大杉二宮神社、能座中尾神社、十二所満福寺本堂、馬瀬清養寺本堂内部、赤崎進美寺観音堂、香住大乗寺山門などに見られます。身近な所に美しい彫刻があります。火災除けのために水を表す波や雲の彫刻も好まれました。綺麗な彫刻で飾られた社寺建築は、彫刻の博物館でもあります。
養父市-
境内・社叢
鳥居・社号標 広い境内と能舞台
由緒案内板
参道までの石段 拝殿
拝殿扁額 廊下・本殿
本殿
左右の境内社
市指定天然記念物 大カヤの木
樹高 28m 幹周 4.5m 樹齢 500年
地名・地誌
赤い参道橋は旧道の橋とこちらにもある。新しく塗られているがこちらが最初かも。
旧関宮町(せきのみや)の由来はこの関神社から。円山(まるやま)川の支流八木川と八木谷川が合流する場所に集落が発達、中心の関宮は山陰道の宿場町であった。山名四天王八木氏の所領地で中瀬(なかぜ)鉱山があった。 2004年(平成16年)4月1日、 八鹿町、養父町、大屋町との養父郡4町の合併により「養父市」になったことで消滅した。合併後、「関宮町」という名称は使われなくなった。山田風太郎生誕地(2003年完成した山田風太郎記念館があります)。
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