県下最古の在銘鳥居 酒滴神社
Contents
概 要
社号 酒滴神社
読み:さかたれじんじゃ
所在地 兵庫県三田市藍本字庵ノ上
旧地名 摂津国河辺郡
御祭神 素戔鳴尊(すさのおのみこと)・春日大神・八幡大神
例祭日 10月17日
社格等
式外社
近代社格制度
社格制度廃止後
創建 貞観年間(859~77)
本殿様式 三間社流造、檜皮葺
境内摂末社(祭神)
文化財
石造鳥居(県指定)、本殿・算法額(市指定)
一口メモ
11月16日・17日の摂津国式内社めぐりは、この三田市藍本の酒滴神社からスタート。舞鶴自動車道丹南篠山口ICから13.8 km南へ。
国道176号線藍本駅駐車場で夜が明ける(日の出6時35分)のを待って。
酒滴神社は式内社ではないが、兵庫県最古の石鳥居で知られています。また、この神社は大阪で働いていた頃、安月給で高速道路を避けて国道176号線で帰省する際に、神社にとくに関心もなかったのに酒屋ということもあって国道がカーブするところに「酒滴神社」という道路標識が酒にまつわる神社だろうといつも気になっていた神社であった。
歴史・由緒等
祭神
9世紀中頃疾病が蔓延した時、スサノオミコトと名乗る童子が神のお告げによって、山中に滴り落ちる霊水を飲むことをすすめ、病から人々を救い信仰を集めたことが始まりという。
-『三田市』より-
由 緒
貞観年間、疫病大流行し、人民多数がその災厄に遇う。この村の童子俄かに飛踏すること二丈許り、呼んで言うに「我は是れ素盞嗚尊なり。今疫気天下に流行す宜しく神酒を供え其邪気を救うべし。汝等早く香ある山に尋ね登り滴を飲んで其災を祓うべし」と言い終って悶絶。
村の老若男女喜んで酒を尋ね登ること五町余、谷があって両山の狭い所自然の岩石峩々として高さ丈余、上には松桧が翆を重ね下には流水藍を染め実に神仙の霊窟であってその岩石下に神酒が流出していてこれを飲むと疫気夢の如く熄んだ。そこで「石山大宮」と号して斉しく崇敬した。長暦2年(1038)、疫気が人を悩まし、後朱雀天皇は当社の霊夢に感じて勅使を遣された。
応永年間(1394~1427)、将軍足利義持が熱病に罹って懊悩すること十余日、当社に祈って滴を嘗めると忽ち平癒。
そこで楽器及び神領を寄進して奉賽。
後に後小松天皇がその事を聞召して、石の華表を建立。その石の華表は今に残存。元禄13年(1700)、宗源宣旨を以て正一位酒垂大明神と号し、享保12年(1727)、九鬼隆抵が社殿を再建。
-「兵庫県神社庁」-
素戔嗚命を祭神とします酒滴神社の縁起は、酒滴神社の縁起は、貞観年間(860~)、国内で悪疫が
蔓延したとき、『われは素戔嗚命なり』という一童子のお告げで山へ登った村人が、天然の霊窟から垂れ出る酒を発見しました。これを飲んだ人たちは、忽ちのうちに治ったので神まつりをし、岩山大明神として崇拝したことから始まったといいます。そして長暦二年(1038)春、又もや悪疫が大流行しました。時の帝、後朱雀天皇は甚く心を悩まされていましたところ、或る夜夢枕に仙人があらわれて、この霊水を奨めました。
早速宮古に取り寄せ、病人たちに服用させたところ、さしものはやり疫いも治ってしまいました。霊験あらたかな神をまつる社号を『酒滴神社と改めよ』と仰せられ、神領を御寄進なさったと伝えています。この酒滴岩は神社裏山の頂上近くにあります。
応永二年(1395)、丸武貞国が寄進造立した立派な石鳥居が馬場先にあります。県下最古の在銘鳥居で、県指定の重要文化財になっています。本社の随神門に掛かっている算額は、この村の住人、近世和算の碩学、下垣内市左衛門が文化八年(1811)に奉納した物の写しです。実物は収蔵されていて、三田市しての重要文化財となっています。
門前通りはむかしから、丹波路の主要街道で、近世では藍新町宿場とて、賑わいをみせていたところです。裏に聳える虚空蔵山(592M)への道は、ハイキングコースになっていて、頂上からの眺望は、摂播磨を見渡せる絶景の地です。中腹には、十三詣りで知られる日本三体随一の虚空蔵菩薩をおまつりしているお堂があります。」「社頭案内板」
境内・社叢
応永2年銘の石造鳥居田んぼの里道に建っている 社頭
狛犬
御神門(割拝殿) 参道石段
拝殿・鳥居 手水舎
社殿 右手境内社
左手境内社
地名・地誌
地 図
交通アクセス・周辺情報
JR福知山線「藍本駅」より南へ250m
交通・車 舞鶴若狭自動車道「三田西IC」より北へ約7km。国道176号線「大安橋」西へ約300m
参 考
三田市
0件のコメント