石部神社(式内 刀我石部神社)

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社号 式内社 但馬国朝来郡 刀我石部神社
読み:古 トカノイソベ 現 とがいしべ
所在地 兵庫県朝来市和田山町宮645
旧地名 但馬国朝来郡東河郷
御祭神
踏鞴五十鈴姫命(たたらいすずひめ のみこと)
天日方奇日方命(あめのひかたくしひかた のみこと)
五十鈴依姫命(いすずよりひめ のみこと)
『国司文書・但馬神社系譜伝』刀我磯部臣の祖・誉屋別命
例祭日 10月10日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
朝来郡(アサコ・あさご):9座(大1座・小8座)
式内社

近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳 (人皇40代天武天皇の3年『国司文書・但馬神社系譜伝』)
旧社地は現在不動堂。独立丘の上に鎮座する。今日でも旧本殿ど思える社殿が覆屋の中に現存する。 明治42年1月20日現在地に遷
本殿様式 流造銅葺

境内摂社(祭神) 稲荷神社

一口メモ

寺内から東河までの県道は初めて。和田山町市街地の北、岡田の八幡神社から県道273号線を東河小学校を過ぎて東河川にそって3.4km東へ行く。広いまっすぐな県道ができている。 10月10日、ちょうど宮区も秋祭りで、のぼりが参道までまっすぐに一本道に張られているのですぐわかった。鳥居は県道宮のすぐにある。日が暮れかけていて区の人が片づけ作業をされていた。

歴史・由緒等

踏鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメ)は、神武天皇の皇后。『日本書紀』では「媛蹈鞴五十鈴媛命」と記す。『古事記』では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記し、別名、「富登多多良伊須岐比売」(ホトタタライスキヒメ)としている。

皇后の名の中にある「タタラ」とは、たたら吹き製鉄の時に用いられる道具であり、このことは、皇后の出身氏族が、製鉄と深い関係がある出雲(現;島根県安来地方)地域であったことを物語っていると考えられている(加藤義成著「古事記参究」素行会(1986年)など)。

『古事記』では、三輪大物主神(スサノオの子孫大国主の和魂とされる)と勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)の娘である。

五十鈴依媛命(イスズヨリヒメ)は、、『日本書紀』、『旧事本紀』によれば、綏靖天皇の皇后で、事代主の娘(母の名は不詳)、安寧天皇の母、五十鈴依姫。姉は姫踏鞴五十鈴媛命。欠史八代であるため夫綏靖天皇とともに実在しないとの説がある。なお、『古事記』には五十鈴依媛命は登場せず河俣毘売が綏靖天皇皇后。

天日方奇日方命(アメノヒカタクシヒカタノミコト)

「旧事本紀(くじほんぎ)」にみえる豪族。斎名:ワニヒコ。
出雲の事代主神(ことしろぬしのかみ)の子。母は活玉依媛(いくたまよりひめ)。妹の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)が神武天皇の皇后になったことにより,可美真手命(うましまでのみこと)とともに申食国政大夫(けくにのまつりごともうすうなきみ)となったという。大神(おおみわ)氏の祖。別名に阿田都久志尼命。

拝殿扁額には「刀我石部神社」と書かれているが、当社の正式名は、単に「石部神社」と言うらしく、境内案内、地図や資料にも、石部神社とのみ記されている。

ただし、山東町や出石町にも石部神社があり、区別のため、刀我石部神社とする資料も多い。
刀我は東河川の「東河」と同じもので、東河川そばの石部神社ということだろう。

『国司文書・但馬神社系譜伝』
人皇37代(異説あり)孝徳天皇の大化3年秋8月 朝来石辺公の子・石辺公在麿を以って、朝来郡司と為す。
人皇40代天武天皇の3年秋7月 仲哀天皇の皇子・誉屋別命(ほむたわけ・)の末裔、刀我磯部臣を以って、朝来郡司と為す。
刀我磯部臣は、その祖・誉屋別命を刀我丘に祀る。

境内・社叢

  
宮側鳥居                  久田和側鳥居

  
御神門                   境内

  
本殿                      拝殿扁額


境内社

境内前の池

地名・地誌

地 図

兵庫県朝来市和田山町宮645

交通アクセス

山陰本線「和田山駅」より東へ約6km

周辺情報

参 考

但馬の神社と歴史三部作

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