久美浜町(熊野郡) 京丹後市 京都(丹後国)

雲晴神社(式内 熊野神社摂社) 

概 要

社 号 雲晴神社境外摂社 熊野神社
式内社 丹後国熊野郡 熊野神社(論社)
読み:くまの
江戸時代は「熊野權現」

所在地 京都府京丹後市久美浜町甲山
旧地名 丹後国熊野郡神野郷甲山村
御祭神 伊邪那美命(イザナミノミコト)
天神七代地神五代 熊野四十八王 大膳職豊受気持命 同豊宇賀能咋命 『丹後旧事記』
例祭日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
熊野郡(クマノ):11座(並小)
式内社

近代社格制度 無格社

創建     年代不詳
本殿様式

境内摂社(祭神)

一口メモ

国道178号線から、兜山(甲山)公園登山道を登って頂上付近にあるらしいがわからなかった。反対側まで降りたり、交差点を左折し神崎周辺を何度も両側から行き来して、ついでに山頂展望台まで車で登ってきた。山頂部には、北向きに展望台があり久美浜湾を望むことができる。
展望台の少し南の麓、林の中が、当社境内。
鎮座している兜山は、甲山とも記し、もとは神山であったとも考えられている神聖な山(神奈備)。

歴史・由緒等

熊野神社(くまのじんじゃ)
熊野神社は、『延喜式』神名帳に記載され、熊野郡の名称の由来にもなった神社と伝えられています。
平安時代の歴史書『日本三代実録』貞観十年(八六八)九月二十一日条に「丹後国正六位上熊野神」に「従五位下」を授ける記事があり、これは当社のことと思われます。
そもそも鎮座している甲山には祭祀遺跡もあり、「甲山」は「神山」が転じたものという説もあることから、山全体が信仰の対象となっていたのではないかと考えられています。
『丹後旧事記』など江戸時代の地誌類には、丹波道主命の勧請、川上麻須郎の造立と伝えられています。
また『熊野郡誌』には、養蚕農家が境内の小石を借り受け、家に祀るとネズミの害を逃れるという風習があったことが記されています。
現在の社殿の建立年代は不詳ですが、昭和二年(一九二七)の丹後大震災により被害を受け上屋を再建した際の棟札が残されています。
「京丹後市教育委員会」「社頭掲示板」

『丹後旧事記』
熊野神社。川上庄甲山村。祭神=天神七代地神五代 熊野四十八王子 大膳職豊宇気持命 同豊宇賀能売命。
当社は崇神天皇十年癸巳九月勧請也当国土形里国府に定の道主命下向ましまして当郡川上麻須郎の女を娶り給ふ是に四柱の女君有て五十狭茅尊の皇后次妃と成のよろこびのあまり将軍道主命の勧請にて宝殿は川上麻須郎造立し玉ふ此時日間岳野辺を神戸に定め玉ふとなりと風土記に見えたり今も神戸大明神の社残れりと順国記にあり。

『京都府熊野郡誌』
熊野神社 式内村社。久美浜甲山神崎堺界中央小字甲山鎮座。
祭神=伊奘冊尊
由緒=式内社にして、崇神天皇の代旦波道主命川上麻須郎女を娶り、五女を挙げ給ふ。子女皆垂仁天皇の皇后皇妃に立ち給へるを祝ひて勧請し、宝殿は川上麻須の造立に係れりとは、丹後旧事記等に説ける処にして、維新前郡中の雨乞等を為すには、必ず当社に於て行ふを例とせり。当社は山上に鎮座せられ、郡の総社なりといふ。四方の展望絶佳にして北は洋々たる日本海小天橋を眼下に見下す等得難き風趣あり、貞観十年従五位下を授けらる。抑も当社は郡名の起源にして、往古は地方崇敬の中心たりしなり。
編者按ずるに、甲山は元神山なりしを、後世甲山と記せるものならん。且つ熊野神社は本宮新宮若宮の三社あるを普通とす。字河梨に在るを新宮といひ、字品田に在るを若宮といひ、当社は其の本宮たり。而して両部神道の盛なるや、熊野権現を唱へ来りものにて、今尚権現山と称するを例とす。伝説によると字神崎にコクンバラといへる地あり、浦明にては古熊野といふ、当社の元社地也といへり。
三代実録、貞観十年九月廿一日辛亥授丹後国正六位上熊野神従五位下
神名帳考証 熊野神社 在熊野村 饒速日命歟姓氏録云熊野連饒速日尊命味饒日命之後也
一 崇敬者 六百五十人
霊験 一般養蚕家にてはお猫様と唱へ、当社境内の小石を借受け来りて奉安すれば、鼠の害を免るといふ。而して返済の際は小石を倍数とし持行くを例とす。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/ktngc/kooyama.html

境内・社叢

  
ご神体の兜山(甲山)を背に鳥居と灯籠      雲晴神社(摂社熊野神社の道の東側(反対側))

  
本殿覆屋                    拝殿・本殿

  

地 図

京都府京丹後市久美浜町甲山

交通アクセス・周辺情報

甲山展望台から眺める久美浜湾

参 考

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