九野木神社(奈佐路)
Contents
概 要
社号 九野木神社
読み:古 、現 くのぎ
延喜式神名帳 式内社
所在地 兵庫県豊岡市日高町奈佐路744
旧地名 但馬国気多郡狭沼郷
御祭神 主祭神 迦遇槌命(かぐつちのみこと)
配祀神
例祭日 10月15日
社格等
近代社格制度 無格社
創建
本殿様式
境内摂末社(祭神)
一口メモ
県道1号線からこうのとり但馬空港へ向かう県道713号線に入ってすぐ東側。奈佐路区公民館裏手の丘に公園と神社がある。
歴史・由緒等
由 緒
「無格社(兵庫県神社誌)」「兵庫県神社庁」
とのみあり、詳細は不明である。
「九野木神社」という社号は、後述の『国司文書 但馬郷名記抄』 気多郡狭沼郷村名に、国棺(クノギ)という村名があり、例えば、「諸国郡郷名著好字令」(好字二字令または単に好字令とも呼ばれる)は、元明天皇の御世、和銅6年(713年)5月に発せられた勅令で、それまで旧国名、郡名や、郷名(郷は現在で言うと町村ほどの大きさ)の表記の多くは、大和言葉に漢字を当てたもので、漢字の当て方も一定しないということが多かった。そこで地名の表記を統一しようということで発せられたのが「好字二字令」である。漢字を当てる際にはできるだけ好字(良い意味の字。佳字ともいう)を用いることになった。適用範囲は郡郷だけではなく、小地名や山川湖沼にも及んだとされる。
『国司文書 但馬郷名記抄』において現存しない村名に、陶谷・国棺があり、どちらも今の奈佐路をさすものだと思う。その証拠として当社の社号が証明しているといえよう。当社のある奈佐路東部から竹貫かけての丘陵地は古墳群が多くあり、国郡郷の首長の墳墓を意味する国棺を、「九野木」と改めたものであろう。
境内・社叢
社頭 手水舎
狛犬
地名・地誌
奈佐路
『国司文書 但馬郷名記抄』
国棺は現存しないが、同様に養父市八鹿町国木も元は国棺と書き、墳墓箕谷古墳群がある。日本の古墳時代では初めての事例である銅象嵌(どうぞうがん)という技法で刻まれている戊辰年銘大刀(ぼしんねんめいたち)が埋葬されており、養父郡首長クラスの墳墓ではないかといわれている。当時国・郡の長が葬られた場所であろう。奈佐路の東の丘から藤井北の古墳群周辺に間違いはないと思う。
国棺とは多遅麻国造の墳墓をさす。気多郡首長氏族別一覧表に、多遅麻国造のち但馬国司、但馬介に、
「人皇40代天武天皇13年冬10月 応神天皇の皇子、大山守命の裔、榛原公鹿我麿を以て、但馬国司と為し、位小錦上を授く。榛原公鹿我麿は気多郡狭沼郷を開き、墾田と為す。」
「人皇47代孝謙天皇天平勝宝元年正月6月 大炊山代直賀麿を以て但馬介と為す。大炊山代直賀麿は八代邑を開き、墾田と為す。」が記されている。どちらも但馬国司または但馬介で但馬国棺にふさわしい名である。
陶谷と国棺が合わさり、奈佐路となったのではないか。奈佐路は城崎郡奈佐郷(今の豊岡市奈佐地区)へ通じる道という意味で、こうのとり但馬空港を通り、岩井へつながる県道713号線。
陶谷は「スエタニ」が「スダニ」となり、地名は今の式内須谷神社(豊岡市日高町藤井)に残っている。陶は陶器のことで、清器とも書いた。
『国司文書 但馬大観録』に、
雄略天皇17年春3月朔、土師連らに勅して、朝夕の御膳を盛るべき清器を進ぜさせた。その土師連として、摂津国来狭村、山背(山城)国内村・俯見村(伏見)、伊勢国藤形村、および丹波・但馬・因幡の私民部を進ぜた。名づけて贄土師部という。
丹波国天田郡土師村(今の福知山市土師)、因幡国智頭郡土師村、但馬国出石郡
(中略)
18年春4月、気多郡陶谷の人、陶谷甕主、出雲国阿故谷の人、阿故氏人、小碗氏人等美含郡に入り、阿古谷(今の豊岡市竹野町阿金谷)・陶谷(今の〃須谷)・埴生(今の〃鬼神谷?)・小碗(今の〃小丸)において、陶器・清器(須恵器)の類を作り、部落をなす。
このことから奈佐路の谷あいは、古くから大和でも知られた陶器つくりを営む土師部の村で、 但馬では陶器を営む部民の4村の一つとして発達したことが記録に残っている。
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「兵庫県神社庁」
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