勝手神社・春日神社(式内 岡田国神社論社)
Contents
概 要
社 号 春日神社
読み かすがじんじゃ
勝手神社境内への移転後「岡田国神社仮借(イソロ)社」と呼ばれていた
延喜式神名帳 式内社 山城国相楽郡 岡田國神社(論社)
所在地 京都府木津川市加茂町大野1
御祭神 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
例祭日 不明
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
相樂郡 6座(大4座 小2座)
近代社格制度 勝手社(旧村社)
創建 年代不詳
本殿様式 春日造
勝手神社
勝手神社は、寛永(1624~44)の頃までは「鹿背山明神」と称し、大宝年間の創立との伝承が有る。
祭神 天忍穗根命(あめのおしほねのみこと)・天大日靈女貴命(あめのおおひるめむちのみこと)・多久幡千千姫命(たくはたちちひめのみこと)
境内摂末社(祭神)
市杵島神社(市杵島姫命)・八柱神社(五男三女神)・海神社(大綿津見神)
一口メモ
岡田鴨神社から西へ木津川左岸沿いを左に大きくカーブすると赤い鳥居が見えた。鳥居に勝手神社とあるので、違う神社と思い、しばらく進むが他には見当たらないし、スマホのGoogleMapのGPSはその神社近くのやや中腹を指しているので、もしやともう一度引き返してよく見ると鳥居扁額は「勝手神社」の左横により小さく「春日神社」記されている。その鳥居には社務所か参集所のみあり、道路に並行してきれいな砂利が敷き詰められた長い参道が延びている。スマホのGPSが指した番地は小高い地点で間違っていなかった。
歴史・由緒等
『山城相樂郡誌』によれば、岡田国神社は、古くは壱町久保と称する藪の近くに鎮座していたが、昔、この地区(大野村)は、たびたび洪水にあい、神社も流されました。岡田神社の跡地と伝えられている木津川河原の竹やぶの中に、「旧蹟地記念碑」が建立され、中世に勝手神社の境内を拡張し、国神社の祭神並びに境内社春日神社とを合祀し、岡田国神社仮借(イソロ)社」と呼ばれていた。「イソロ」は居候のこと。南都春日神社の感化を受けた時代のことにより春日社と称し、また岡田国神社仮借(イソロ)社とも呼ばれるようになったと考証する、とある。
岡田国神社は木津川市木津大谷と当社が論社となっている。
岡田国神社の旧字が恭仁であれば、恭仁宮が置かれていた加茂町の当神社周辺に岡田神社の跡地と伝えられている木津川河原の竹やぶの中に、「旧蹟地記念碑」があり、当社が旧社地に近いということになる。
境内・社叢
鳥居
社頭 手水
狛犬
(左)春日神社 (右)勝手神社
左手境内社 市杵島神社(市杵島姫命)・八柱神社(五男三女神)・海神社(大綿津見神)
地名・地誌
加茂町
加茂町(現木津川市)の木津川対岸は、もとは奈良時代の一時期、都が置かれ、恭仁京(くにのみや)(山城国分寺)が置かれていた。
藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年)12月15日聖武天皇の勅命により、平城京から遷都された。相楽が選ばれた理由として右大臣(のち左大臣)・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。
741年(天平13年)の9月に左京右京が定められ、11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、大極殿が平城京から移築され、大宮垣が築かれていき、宮殿が造られた。条坊地割りが行われ、木津川に大きな橋が架けられた。しかし、都としては完成しないまま743年(天平15年)の末にはこの京の造営は中止されて、聖武天皇は近江紫香楽宮に移り、742年(天平14)秋には近江国で宮の建設が始まり、さらに744年(天平16年)2月に、穂積老を留守官に任じて難波京に遷都、さらに745年(天平17年)5月に都は平城京に戻された。
748年(天平18年)恭仁宮大極殿が山城国分寺に施入された。
岡田国神社はの国は、恭仁が変化したと思われる。どうして山城国の南端であり、大和国の都からすぐ北に山城国国分寺が置かれたのであろう。遷都後、宮城跡地は山城国分寺として再利用されることになった。大極殿は金堂に転用されたという。
調べてみると、山城国の国府は数度変遷しており、4度変遷していることが分かっている。
八世紀前半まで最初に相楽郡、現京都府木津川市山城町上狛(かみこま)と推定。当地には山城国分寺も所在。
地 図
交通アクセス・周辺情報
恭仁宮跡(山城国分寺跡)
参 考
「延喜式の調査」 「奈良の神社」
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