名神大 山科神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

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概 要

社 号 山科神社
読み:やましな
延喜式神名帳 式内社 山城国宇治郡 山科神社二座 (並名神大 月次新甞)
読み:ヤマシナ
所在地 京都市山科区西野山岩ヶ谷町1
旧地名 山城国宇治郡
御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)・稚武王(わかたけのみこと)
例祭日 10月10日(山科祭)

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
宇治郡(ウチ) 10座(大5座・小5座)
式内社(並名神大 月次新甞)

近代社格制度 旧村社
創建     寛平9年(897年)
本殿様式   流造

境内摂末社(祭神)

一口メモ

山科区の西、阪神高速道路山科出入口に近い場所に大石神社は鎮座し、式内 山科神社はその少し南にある岩屋寺の隣り。延喜式神名帳山城国宇治郡10座(大5座・小5座)で山科区内では、日向神社(現社名 日向大神宮)と山科神社の2社。

歴史・由緒等

日本武尊稚武王を祀る。
社伝によれば、寛平9年(897年)宇多天皇の勅命により創建されたと伝え、以後 、この地の豪族、宮道氏の祖神として、また、山科一之宮とも呼ばれて、この地の産 土神として、崇敬をうけ、栄えてきた。
盛時には社領を丹波、山城に持ち、社殿の 規模も大きかったが、度々の兵火のため焼失し、現在は三間社流造の本殿及び、権殿、拝殿、神庫などが残っている。
また、元禄14、5年(1701~1702)赤穂浪士の大石良雄が山科の里に隠棲 していたが、その時、当社奥の院岩屋神社に参篭して大願成就を祈ったといわれてい る。
例祭は「山科祭」と呼ばれ、毎年10月10日に行われる。

「社頭掲示板」

境内・社叢

  
鳥居                        参道石段


手水舎


拝殿(舞殿)

   
狛犬

  
向拝                        本殿

  
左境内社 権現社・護国社              右境内社 不明

地名・地誌

山科(やましな)

山科区は京都市を構成する11の行政区の一つ。京都市の東側にある山科盆地の北部と、周辺の山地を区の範囲としている。

地理

東山により京都盆地から、音羽山や醍醐山(笠取山)などにより近江盆地からは隔てられている。昔から京都と東国とを結ぶ交通の要衝であった。かつては滋賀県との境の農村だったが、現在は京都市街地や大阪のベッドタウンとなり、他地域からの移入者も多い。
東側は滋賀県大津市との県境に接しており、大津との結び付きも強い。また、南側は伏見区醍醐地区と接しており、山科区と同一の生活圏や経済圏を形成している。山科区と醍醐地区との繋がりは、伏見区中心部と醍醐地区の繋がりよりも深いと言われる。

歴史

山科周辺は古くから交通が盛んであり、東山を越える日ノ岡峠、大津宿へ抜ける逢坂関が東海道の要所として知られていた。山科は東海道の街道町であり江戸時代には特に栄えた。また、逢坂から南へ抜ける奈良街道(奈良に都があった頃の北陸道)、東山を日ノ岡の南で越える渋谷街道(東国と六波羅探題を結んだ)や滑石街道、大岩街道など数多くの街道があった。

栗栖野の台地には縄文時代から人が住み弥生時代の大規模な集落跡も見つかっている。特に旧石器時代後期から室町時代にかけての遺跡が重なっている中臣遺跡は重要な遺跡である。
山科は古代より政権との結びつきが深く、669年には中臣鎌足によって精舎(山階寺)が作られ、7世紀末には天智天皇陵などが作られた。平安京や比叡山延暦寺の創建後、安祥寺(848年)・毘沙門堂門跡・勧修寺(900年)・曼荼羅寺(後の随心院、991年)など多くの寺院が作られ、区外の山科川下流の醍醐・笠取山の山上・山麓には醍醐寺(874年)が創建されている。

沿革

1889年(明治22年)4月1日 – 町村制施行に伴い、宇治郡安朱村、上野村、御陵村、日岡村、厨子奥村、竹鼻村、四宮村、髭茶屋町、八軒町、小山村、音羽村、大塚村、西野村、東野村、北花山村、大宅村、椥辻村、上花山村、川田村、勧修寺村、西野山村、栗栖野村、小野村が合併して宇治郡山科村が成立。
1926年(大正15年)10月16日 – 山科村が町制施行し山科町となる。
1931年(昭和6年)4月1日 – 宇治郡山科町が京都市に編入。東山区の一部となる。
1951年(昭和26年)6月 – 東山区役所山科支所が発足。
1976年(昭和51年)10月1日 – 東山区から旧山科町が分区され山科区となる。

(ウィキペディアに一部補足)

地 図

交通アクセス・周辺情報

天智天皇陵・大石神社・岩屋神社・日向大神宮・勧修寺・随心院・醍醐寺・琵琶湖疏水・坂上田村麻呂(さかのうえ たむらまろ)の墓

参 考

「延喜式神社の調査」さん、


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